「パックマン」の父と呼ばれたナムコ創業者 「幻のゲーム機」構想 任天堂の大物と確執も

 
パックマンのゲーム画面。斬新なゲーム性により、世界中で愛されている

 「パックマン」などで知られるゲーム会社、ナムコ(現バンダイナムコホールディングス)の創業者、中村雅哉さんが1月22日、91歳で死去した。中村さんは卓越した経営手腕と社内外から慕われた人柄で、今では日本のお家芸ともなったゲーム市場を初期からリードし続けた。他社の大物経営者との確執や幻のゲーム機構想などを含め、世界のエンターテインメント産業に多大な影響を及ぼした故人の足跡を振り返った。

 「ナムコのゲームに外れなしって言われていたよな」「ファミコン買ったのナムコのゲームをするためだったよ」

 訃報が流れると、インターネットの掲示板には、中村さんを悼むコメントがあふれた。特に、ゲームファンの印象に残っているのは、1980年代のナムコだ。80年に業務用(ゲームセンター向け)に出したパックマンは大ヒットし、その人気はいまに至る。ゲーム雑誌「ファミ通」を発行するカドカワの浜村弘一取締役は「それまでは敵を撃つ『シューティングゲーム』が主流だったが、まったく新しいゲーム性により、世界中で愛された」と指摘する。モンスターから逃げながら、迷路内に並んでいるドット(クッキー)を食べる。「パワーエサ」を食べると一定期間、モンスターに反撃できるというゲームだ。

 パックマンの海外での人気は、英ギネスが「最も成功したゲーム機」に認定したことや、米映画「ピクセル」の題材になったことでもわかる。米グーグルは2010年、検索サイトのトップページを一時的に、実際に遊べるパックマン仕様に変更した。経済用語でも、敵対的買収を仕掛けられた企業が逆に株式公開買い付け(TOB)を行う対抗措置を「パックマン・ディフェンス」と呼ぶほど浸透している。

 また、ナムコは1983年に発売されたファミリーコンピュータ(ファミコン)にも積極的に参加。特に「ゼビウス」は、「業務用のゲームを家庭で楽しめるというのが衝撃的だった」(浜村氏)。プレーヤーの操る戦闘機が画面の先に先に進み、見たことがない景色が広がる「スクロール」や、地上の決められた場所を正確に攻撃すると、銀色の塔や旗が突然現れる「隠れキャラ」のはしりでもあった。

 中村さんは欧米で「パックマンの父」との異名をとったが、もちろん、現場でゲームをつくったクリエイターは他にいる。パックマンの岩谷徹氏、ゼビウスの遠藤雅伸氏らが有名だ。それでも、中村さんが「父」と慕われるのは、経営の力と人柄で、彼らを強く後押ししたからだ。

 ナムコ出身の石川祝男バンダイナムコホールディングス会長は中村さんについて、「社員の『これをやりたい』という思いをとても大切にし、若手にチャンスをどんどん与える人でした」とコメント。浜村氏も「中村さんの人柄で、『楽しんでモノをつくる』『新しいことに挑戦する』という風土がナムコ社内に培われた」と指摘する。

 当時はゲームの画像には著作権が認められていなかったが、パックマンの偽物が出回ったのをみた中村さんはすぐさま提訴。ゲームの画像は「映画の著作物」に該当するとして、上映権を主張する。この結果、85年に「プログラムの著作物」が認められた。この一連の戦いは「パックマン訴訟」と呼ばれ、今でも業界では語り伝えられている。こうした知的財産権への取り組みなどを踏まえ、石川氏は「ゲーム産業が社会的にも認知されるようになった原点には中村さんの存在がある」と振り返る。

 中村さんは、家業の鉄砲店の承継をあきらめ55年、30歳の頃にナムコのルーツとなる中村製作所を設立しエンターテインメント産業に足を踏み入れた。中村さんは、その当時のことをよく「本当は船乗りになりたかったが、目が悪かったのであきらめた」と説明していた。

 当初の仕事は、横浜の松屋デパート(後に横浜松坂屋本店となったが現在は閉店)の屋上で手掛けた金魚すくいや電動木馬の設置など。次第にデパートの屋上遊園地の運営や遊具製造などに拡大、事業の素地を築いた。

 74年にテレビゲームの老舗、米アタリの日本法人を買収。ゲーム産業に本格進出し、77年に社名をナムコに変更した。太東貿易(現タイトー)が社会現象にまでなったビデオゲーム機「スペースインベーダー」を発表すると、素早く反応し、「ギャラクシアン」「マッピー」などを投入して業界のトップ企業へと躍り出た。

 ファミコン進出については、知る人ぞ知る裏話がある。ナムコは任天堂のライセンスを受ける前から、自社でファミコンを解析し、“勝手に”ソフトを制作していたというのだ。このことで、ファミコンソフト市場をコントロールしたい任天堂の山内溥(ひろし)社長(当時)と確執が生じ、後にナムコが他社のゲーム機向けソフトに注力することにつながったとされる。

 もっとも、今はもう、わだかまりはないようだ。任天堂は2010年、ホームページに岩田聡社長(当時)がかつてのファミコン担当者に話を聞くという内容の記事を掲載。岩田氏はその中で、「ナムコさんは、CPU(中央演算処理装置)が何かもわからなかったところから、ファミコンの画面や音声の表示がどのような仕組みになっているかまで自力で解析されたそうですね」と感嘆している。

 また、1994年にソニーが家庭用ゲーム機「プレイステーション」を投入する前にナムコも自社開発のゲーム機を検討していたという。最終的には開発をやめハード、ソフトの両面からソニー陣営を支えた。もしも、「ナムコのゲーム機」が世に出ていたらどんなものだったか、ゲームファンなら想像せずにはいられないだろう。

 その傍らで、中村さんは企業再生にも熱心に取り組んだ。93年には会社更生法の適用を受けた名門映画会社、日活を買収。「昔から映画作りがしたかった」という夢をかなえる。

 中村さんは、オランダの歴史家、ホイジンガの言葉「人間は遊ぶ存在である(ホモ・ルーデンス)」をよく口にした。人間の重要な欲求である「遊び」にナムコは応えていくのだ、と。「遊びをクリエイトする」というナムコのキャッチコピー通り、ゲームという分野でそれを創造し、発展させ、世界に冠たるものにまで育て上げた。(フジサンケイビジネスアイ企画委員 青山博美、経済本部 高橋寛次)

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