《初めての海外勤務は56歳と遅かった。しかし、現地の外国人たちに物おじすることはなかった》
「1996年に富士フイルムヨーロッパの社長としてドイツに赴任した。その年齢になって初の海外勤務は気が重かったが、部下に仕事を任せるのではなく、何事にもガチンコ勝負をした。欧州市場は当時、首位のコダックにシェアで2倍近くの差を開けられ、万年2位に甘んじていた。会社を戦う組織に立て直そうと自ら引っ張っていった」
「製品の差別化を行う一方で、『割安品の二流メーカー』というイメージから脱却するために、ブランド戦略を練り直した。そうやって結局、23%だったカラーフィルムのシェアを30%近くまで伸ばすことに成功し、コダックに追いついていった」
「後で聞いたが、現地のドイツ人スタッフは、徹底的に相互コミュニケーションを行い、高い目標達成を次々と突きつけていく私のことを、日本から本当のサムライがやってきた、『スーパー日本人』だと言っていたという。困難を乗り越えるごとに胆力、思考力、決断力といった実力が蓄えられていった」(小島清利)
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【プロフィル】古森重隆
こもり・しげたか 東大卒。1963年富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)入社。富士フイルムヨーロッパ社長などを経て、2000年社長、03年最高経営責任者(CEO)を兼務。12年6月から現職。旧満州生まれ。