HY戦争は、ホンダとヤマハ発動機による、50ccバイクをめぐる熾烈(しれつ)なシェア争いを指す。二輪車首位のホンダに対し、2位だったヤマ発が仕掛ける形で1978年頃から始まる。
1週間に1モデルのペースで新型車が投入されるほど開発競争は激化。やがて自転車よりも安価な50ccバイクが店頭で売られていく。国内二輪車市場は75年までは約110万台前後で推移していた。これが、82年には334万台に急拡大し、このうち約278万台が50ccバイクで占められた。
業界3位のスズキは当初「HY戦争は対岸の火事」と捉え、上位2社の激突で発生した市場拡大に便乗する作戦を取った。しかし、市場は明らかに供給過剰となる。
81年のある週末、鈴木修・スズキ会長兼CEO(最高経営責任者)は地元の名門ゴルフ場に足を運ぶ。プレー前、ゴルフ場理事長で静岡銀行元頭取のH氏から、呼び出されて次のように言われた。「修君、知っているかい。三ケ日のミカン倉庫と、富士の古紙倉庫がこの季節なのにもうかっているよ。原付きバイクで溢(あふ)れているから」
週明け、調査すると案の定、スズキ製を含め倉庫は50ccバイクでいっぱいになっていた。気づかないうちに、スズキもHY戦争に巻き込まれていたのだ。
翌朝、社員を工場に集め、鈴木氏は指令を発した。
「生産ラインを止めろ。これから全員で在庫処分に当たる」
スズキはそれまで増産を続けてきた50ccバイクの5割減産に踏み切る。この判断により、スズキの二輪車事業は深手をこのときは被らなかった。