2011年3月11日、午後2時46分。一関工業高等専門学校4年生だった千葉さんは春休み中で、原付きバイクに乗って自宅近くの交差点で信号待ちをしていた。「ゴッ」という地鳴りとともに大きな横揺れに襲われた。街路樹は「ビビビッ」と不気味な音を発しながら激しく揺れ、近くのブロック塀が生き物のように波打っているのが見えた。
情報もなく、不安が募る夜を過ごした。翌日、家の前を歩きながらふと気づいた。昨日から列車が全然通っていない。東日本大震災後の津波警報が全国に発令されたことで、ほとんどの鉄道は停止を余儀なくされていた。東北本線は海岸に近いエリアなどが被災し、全線開通には1カ月以上を要した。
国道4号からはトラックの姿が消え、物流が途絶えた。間もなく付近の商店から品物が消え、ガソリンスタンドには長蛇の列ができた。ガソリン不足は深刻だった。
忘れられぬ記憶
震災から1週間ほどが経過したとき、JR貨物が臨時列車を仕立て、通常とは違う日本海縦貫ルートで根岸(横浜市)から青森経由で盛岡まで石油を運ぶとの新聞記事を見た。記事には新潟経由で磐越西線ルートを活用する石油輸送計画も書かれていた。「そうか、太平洋側が被災してもレールがつながっていれば貨物列車は走れるんだ」。千葉さんは「すごく勇気づけられた」という。当時の記憶は忘れられない。