2014.9.17 05:00
■「現場にこそ真理がある」を糧に
創業100年を超えるレンゴーは、段ボールを日本で初めて製造し、「段ボール」と名付けた会社だ。大坪清会長兼社長が力を入れるのは「レンゴーに頼めば何でもそろう」といったように、あらゆる包装ニーズに対応できるゼネラル・パッケージング・インダストリー(=GPIレンゴー)を追求すること。これを糧に、今後は海外での事業を推進する考えだ。
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◆決め手は「美人ぞろい」
≪高校から大学にかけてバレーボール部に所属していた。それが住友商事に就職する決め手となった≫
「大阪府立大手前高校に進学し、バレーを始めた。進学校なのでスポーツは弱かったが、3年時には府内2位の成績を残す。神戸大もパッとせず当初は3部リーグだったが、4年時には1部への昇進を果たした。大学では2年間にわたり住友商事の女子バレー部を指導していたが、美人ぞろいだったので入社を決めた」
≪海外での雄飛を夢見ていたが、入社後は予想していなかったキャリアを歩むことになる≫
「『どういった部署に配属してほしいのか』。当時の津田久社長に聞かれたので、『一番弱い分野を希望します』とリクエストした。鉄鋼や化学品といった花形部署に所属した場合、人材が集中しており自由度が少ない。それよりも自分の意思で動けるところがよいと思ったからだ。その旨を伝えたところ、本当に最も弱点とされる部署でスタートを切った。それは紙・パルプ課。木材・紙パルプは私が入社した前後から取り扱い始めたばかり。大手商社では最後発だった」
≪ところが入社後のわずか2カ月後に当たる1962年6月、住友銀行(現三井住友銀行)が出資していた摂津板紙(後にセッツを経てレンゴーと合併)に出向する≫
「当時の社長は増田義雄さん。業界の中では、大昭和製紙(現日本製紙)の齋藤了英さんに匹敵する異端児中の異端児と知られ、とにかく鍛えられた。最初のあいさつ代わりに言われたのは『万年筆で字を書くことが仕事と思っとったら間違いやで。とにかく現場や』。早速、ネクタイも外されて生産現場に入ることに。当時の板紙は藁(わら)と苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を入れて蒸すという生産方式を取り入れていた。強烈な悪臭が漂い、労働条件は過酷だった」
◆機械の横で寝泊まり
≪こうした中、増田社長からは『機械のことを本当に分かろうと思えば工場の機械の横で2、3日寝てみろ』と言われた。むちゃくちゃな指示であったが、その経験を通じて経営哲学を学んだ≫
「増田さんは、どうせやらないだろうと思っていたかもしれないが、『よし、やってやろう』と闘志がわき、実際に寝泊まりした。すると、摂津板紙の社員の私に接する態度がコロッと変わり急速に親しくなった。(紙を製造する)抄紙機に関する知識については、誰にも負けないと自負している。そのときの経験があるからこそ、私は『現場にこそ真理がある』と言い続けている。その哲学は、社会人生活を送っていくうえでの糧でもある」
≪レンゴーは1999年に摂津板紙(当時セッツ)と合併。その翌年に大坪氏はレンゴーの社長に就任するが、摂津板紙に出向していた3年の時期にレンゴーとの接点を持った≫
「レンゴーの淀川工場がストライキによって生産停止になったことがある。大変なことになったとその応援に行ったとき、後年にレンゴーの社長に就任する長谷川薫さん(当時常務取締役)と出会い、つきあいが始まった。その後、住友商事に戻り、入社4年目には扶桑紙業(後の住商紙パルプ、現・国際紙パルプ商事)という販売会社の専務取締役に就任する」
≪しかし、紙パ産業は不況産業の代名詞であり続けた≫
「個人的には、需要が伸びないのに供給過剰が続き、再編に対する取り組みが遅れていたことが長期低迷の理由だと認識している。また板紙業界には『業界全体をどのように活性化していくべきか』という大所高所から物事を考えるリーダーも不在であった。こうした中、レンゴーの創業者一族である長谷川さんからは、自分が社長の座に就く前の段階から『レンゴーに入社して社長になってほしい』とラブコールを送られていた。私の仕事ぶりを評価してくれたのだと思う」(伊藤俊祐)
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【プロフィル】大坪清
おおつぼ・きよし 神戸大経済卒。1962年住友商事入社。取締役、常務、副社長を経て2000年6月レンゴー社長。14年4月から現職。関西生産性本部会長なども務める。75歳。大阪府出身。