【トップの素顔】大河原愛子(2)日系3世 女性アントレプレナーの挑戦

2015.7.7 05:00

 ■米での大学生活、厚い差別の壁

 アメリカンスクールでは飛び級を使い、1年で卒業して、米イリノイ州エバンストンのノースウエスタン大学に入学しました。アメリカンスクールの学生のほとんどがアメリカ本土の大学に行きましたので、私もアメリカの大学に行こうと思ったのです。日本の大学は私の語学レベルでは、無理だったと思います。私一人でアメリカの大学に進学することにしました。

 ノースウエスタン大学で人生初めて大きな壁に突き当たりました。米国の大学には「ソロリティ」と呼ばれる女子学生の会があります。クラブ活動の一つですが、日本の大学のような時折集まって文化活動やスポーツをするのとは違って、キャンパス内にきれいなソロリティハウスがあり、20~30人が一緒に暮らすのです。一緒に食事や勉強をしたり、生活を共にしますので、仲良しの友達がたくさんできるのです。

 ◆最終面談で落とされ

 ノースウエスタン大学のソロリティに、私も入会したいと申し込みました。既存のメンバーが、私が仲間にふさわしいかを判断するパーティーや面談をするわけです。1次、2次、3次と合格するのですが、いつも最終の4次で落とされてしまいます。何度かチャンスがあるのですが、毎回4次で「残念ながら」と落ちる。悔しくて泣いて、泣いて。調べてみたら全米の組織ですから、白人オンリーとのルールがあったのです。とても悲しい思いでした。このルールを変えられないかと努力したものの、壁は厚かった。学生らの差別意識は強いわけではないのですが、ルールだからと耳を傾けてくれませんでした。このルールは数年後には改定され、私の弟は男性のクラブに入ることができましたが、私のときには間に合いませんでした。

 当時のアメリカはなお人種差別が強くて、白人はバスの前に座り、黒人は後ろ、私は16歳でしたからどこに座ろうかなと躊躇(ちゅうちょ)しながら、真ん中当たりに座っていました。フロリダに行ったときに、お手洗いも「white」と「black」と両方ありました。どちらに入るか迷って「お手洗いはどこ」と聞き、whiteの方を指されたら、白人の方に入るという時代でした。とてもショッキングでした。

 ◆悔しさを政治活動に

 この悔しい思いをエネルギーに変えて、大学での政治活動に目を向けました。学生生活2年目のとき、2500人いた学年で生徒会の副会長選挙に立候補して、当選しました。「学校をこう改革します」と演説して回りました。会長に選ばれたのはのちに民主党下院院内総務となったリチャード・ゲッパードさんでした。

 ソロリティハウスに入会できずに寮に住みました。1部屋に2~4人の共同生活です。親元を離れて暮らすのは初めてで、長距離電話はすごく高かったから月1回ぐらいしかかけなかった。両親の声を聞くと泣きながら話したりしていました。

 もちろん楽しいこともありました。のちにビジネスの柱となるピザを、ノースウエスタン大学時代に初めて食べたのです。夜中、寮の中を走り回って「ピザ取るけどシェアしますか」と募ります。4人以上が賛成してくれると大きなピザの宅配を頼み、おしゃべりをしながらコーラとピザを食べるというライフスタイルです。こんなにおいしいものがあるのだと、懐かしく印象的なひとときでした。(ジェーシー・コムサ会長)

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