基礎研究離れで日本企業停滞 ノーベル賞は過去の成果、遠い新産業創出

2019.12.6 08:00

 携帯電話やパソコン、電気自動車などに使われるリチウムイオン電池を開発した研究者3人が今年のノーベル化学賞に輝いた。その一人は旭化成名誉フェロー、吉野彰。吉野は5日、授賞式が開かれるスウェーデンのストックホルムに向け旅立った。吉野の受賞は日本企業が基礎研究で世界をリードした時代の成果だ。だが、基礎研究という「創造の場」が企業から失われて久しい。

 失った「創造の場」

 受賞対象となる吉野の研究は1981年に始まった。「元々、電池とは一切関係のないテーマだった」と吉野は言う。

 きっかけは筑波大名誉教授、白川英樹が77年に発見を報告した導電性高分子「ポリアセチレン」との出合い。白川は2000年のノーベル化学賞を受賞する。「電気を通すプラスチックという、とんでもない新素材。何に応用するのが最適かを考え、用途を調べた」

 目標を「電池の電極への応用」と定めて研究する中で1985年、より高性能の炭素材料にたどり着く。ここまでが基礎研究で、その後は製品化に向けた研究を進め、92年の発売に至る。

 「当時は企業の基礎研究が華やかなりし頃。新しいことに挑戦するんだという空気に満ちていた」と京都大教授、山口栄一。自身も79年から約20年間、NTTで半導体の基礎研究に携わった。

 研究で企業は大学を圧倒。学会発表の主役も企業の研究者だった。「大学の先生の発表内容は、僕らが5年前か10年前にやった研究ばかり。こちらが真剣勝負の質問をしないので、彼らもそれが分かっていて、情けないと思っていたそうだ」

 大学より1桁多く

 山口によると、その頃、研究者1人当たりの年間の研究費は企業が2000万~3000万円なのに、大学は1桁少ない200万~300万円。「『なまくら研究』しかできないのは仕方なかった」

 この時期の企業研究者のノーベル賞受賞が21世紀に入って続いている。

 島津製作所シニアフェローの田中耕一は、87年に発表したタンパク質の質量分析技術の開発で2002年の化学賞を受賞。14年の物理学賞は、青色発光ダイオードの発明で赤崎勇、天野浩、中村修二の3人に贈られた。

 赤崎は1964年から名古屋大教授となる81年まで松下電器(現パナソニック)東京研究所(川崎市)に在籍。現在、米カリフォルニア大教授の中村は79年に日亜化学工業(徳島県)に入社し、実用化を成し遂げた。

 米に追随、研究所縮小・廃止相次ぐ

 ところが90年代前半のバブル崩壊後、経営で短期的な成果を重視する傾向が強まり、企業は成果が出るまでに時間がかかる基礎研究から撤退を始める。米国式の「株主重視経営」が広まった時期でもある。

 研究所の縮小、廃止が相次ぎ、所属していた研究者は大学や韓国、中国の企業に流出。企業からの論文は減り続け、今やピークだった96年の半分程度となっている。

 企業の基礎研究離れは米国が先行した、と文部科学省科学技術・学術政策研究所の総括主任研究官、富澤宏之は言う。

 「基礎研究は産学連携で、という世界的なブームがあり、米国の企業は大学を頼るようになった。日本もそれに追随しようとしたのではないか」。米国経済はIT、医薬品といった産業を中心に復活を遂げ、日本経済は長い停滞期に突入する。

 産学連携はほとんど進まなかった。当時の日本の大学は産学連携の経験が乏しい上に、連携に必要な仕組みも整備されていなかったからだ。

 明暗を分けたもう一つの理由として山口は、米国のようなベンチャー企業育成制度がなかったことを挙げる。

 スモール・ビジネス・イノベーション・リサーチ(SBIR)という制度で、82年に開始。連邦政府が外部に委託する研究開発費の3%前後を割り当て、毎年計約2000億円の資金を提供する。

 応募して採択されると最大15万ドル(約1630万円)、計画を練り実現可能と判定されるとさらに最大150万ドルがもらえ、投資家も紹介される。製薬大手ギリアド・サイエンシズや半導体大手クアルコムなど新興企業が育つ苗床となった。

 日本にも同様の制度が99年にできたが「単なる中小企業支援策にすぎなかった」と山口。支援を受けた企業の代表者が博士号を持つ割合は7.7%と米国の74%にはるかに及ばず、大学発の最先端の知を生かす仕組みになっていなかったのだ。

 今年、ようやく内閣府が「日本版SBIR」の見直しに着手。研究で生まれた技術を基に社会課題の解決や新産業の創出を目指すベンチャー企業を支援する方向だ。(敬称略)

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