【未来への羅針盤】中央大学の挑戦(6-2)受け継がれる「実学教育」 (3/6ページ)

2014.4.4 05:00

初代校長・増島六一郎は幕末、彦根藩の弓術師範の家に生まれた。1885年に創立された英吉利法律学校の校長に就任、同校が東京法学院と校名を改めた後も1891年まで院長を務めた

初代校長・増島六一郎は幕末、彦根藩の弓術師範の家に生まれた。1885年に創立された英吉利法律学校の校長に就任、同校が東京法学院と校名を改めた後も1891年まで院長を務めた【拡大】

  • 神田錦町にあった初期校舎。1888(明治21)年に右半分が竣工して、英吉利法律学校が使用し、遅れて竣工した左側を姉妹校の東京英語学校が使用した。ルネサンス式の赤れんが2階建て、イオニア式柱頭をもつ、当時としてはひときわ目立つ装飾的な建物だった
  • 最も古い卒業記念写真。1889(明治22)年の第4回卒業記念に、神田錦町の赤れんが校舎の中庭で撮影したもの。写っているのはこの日参集した講師13人と学生105人。ざっと見渡したところ和服が4分の3で、洋服は4分の1程度。まだ制服や制帽、記章は定まっていなかった
  • 1890(明治23)年に制定された裁判所構成法によって、弁護士も法廷では職服着用を義務づけられた。写真左は増島が着用した法服と法帽。かつらは増島がイギリスで法廷弁護士の資格を取得した際に作ったバリスターウイッグ
  • 菊池武夫は1875(明治8)年に第1回文部省留学生に選ばれ渡米。ボストン大学ロースクールで日本人として初めてバチェラー・オブ・ロー(法学士)の学位を取得した。増島のあと、東京法学院長に就任。1905(明治38)年に同学院が中央大学と改称したとき初代学長となり、1912(大正元)年までその職にあった
  • 創立期の英吉利法律学校は「英米法学者相集マリテ英米法律ノ全科ヲ教授シ、其書籍ヲ著述シ、其法律書庫ヲ設立」することを目的の一つとしていた。法律書籍の充実は、社会一般に英文法を普及させるという創立者たちの理想を実現するために不可欠な仕事であった
  • (1)花井卓蔵の卒業証書
  • (2)花井卓蔵
  • (3)曹汝霖
  • (4)ベルリンの日本大使館に会した留学生と学員
  • (5)長谷川如是閑
  • (6)杉村楚人冠
  • (7)吉田久

 □歴史に名を残した先人たち

 ■「人が人を育てる」校風

 「中央大学にとって変わらぬ伝統として大事にしたいものは何かというと、それは人と人との結び付きによって人が人を育て育むという校風であろうかと思います」(福原紀彦学長)

 この伝統が創立のころから培われてきたことを物語るように、1889(明治22)年から93(同26)年ごろにかけての卒業証書は、卒業生の名前に続いて増島六一郎校長以下、講師の名前をイロハ順に横一列に記した巻軸(巻物)タイプの重厚なもの。一人一人の講師が自分の知識の及ぶ限りを卒業生に伝えたという自信と情熱を感じさせる。

 また、巻軸タイプになる前の、やはり講師名を列記した現存する最古の卒業証書の文面は、卒業生の名前に続いて「本校ニ於テ法律学全科ヲ修メ其業ヲ卒フ仍テ卒業証書ヲ授与シ爰ニ之ヲ証ス爾後永ク本校々友タルノ特権ヲ享有スヘシ」(原文は旧字体)とある。

 「『本校々友タルノ特権』とは、『實地應用ノ素ヲ養フ』という建学の精神を体したという意味であり、単なる知識の受け渡しにとどまることなく、人から人へ受け継いでいく素養・資質といったものを大切にすることをベースにしていると思います。私たちは今、そのことを再確認し、それをベースにした教育改革を一層進めているところです」(福原紀彦学長)  

 ■「国際化」のDNAと多彩な人材

 英吉利法律学校初代校長の増島六一郎は「日本語よりも英語が達者」といわれたほどの英語使いとして知られ、アメリカ公使やイギリス領事らを招いた開校式での挨拶も英語で行った。創立者18人のうち6人が英米留学経験をもち、その他の人たちも当然のことながら英語など外国語に堪能だった。発祥のときからインターナショナルなDNAは中央大学の中に組み込まれていたといえる。

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