外国からの留学生は、1896(明治29)年の朝鮮からの留学生受け入れが最初で、その後、清国からの留学生が急増し、1910(明治43)年ごろには全卒業生の過半数をこの両国からの留学生が占めたこともあったという。この中には辛亥革命の後、中華民国で活躍した曹汝霖(そうじょりん)などが含まれている。
教員の海外派遣(在外研究員)は1923(大正12)年に始まり、第1回の派遣教員に選ばれた天野徳也はドイツに留学。帰国後は大学幹事となり、また学部教員として国際法の講座を担当した。
こうした中央大学の草創期の卒業生の中には、私学出身者として初めて法学博士となり、その弁論の巧みさから「花の弁論」とうたわれた花井卓蔵や、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月1日、身命を賭(と)して翼賛選挙無効判決を下した大審院判事の吉田久、戦前戦後を通じて一貫して国家主義を批判し、自由主義思想に基づいて言論活動を続けた「反骨のジャーナリスト」長谷川如是閑、東京朝日新聞のロンドン特派員として筆名をはせ、また、日本の新聞界近代化のためにさまざまな新機軸を打ち出した杉村楚人冠など、歴史に名をとどめた法曹やジャーナリストも少なくない。
■現存する最古の卒業証書と花井卓蔵
1885(明治18)年に英吉利法律学校に入学し、1年級から学んだ生徒に88(同21)年7月に渡された卒業証書が今に残っている。写真は花井卓蔵の卒業証書。花井は弁護士となり、特に刑事裁判の弁護で名声を博した。東京弁護士会会長を務めたほか、衆議院議員、貴族院議員として政治家としても活躍。普通選挙法の実現に尽力した。