「ジャパニーズウイスキーの父」である竹鶴政孝氏がスコットランド留学で完成させた「竹鶴ノート」。日本で初めての本物のウイスキーづくりの土台になった。夫の夢をかなえるため、故郷を離れる決意をしたリタさんに支えられながら、政孝氏の「変革者」としての挑戦は続いた。(産経新聞編集委員 関田伸雄)
政孝氏が教科書とした「ウイスキー並びに酒精製造法」の著者、ネトルトンに師事を拒否された窮状を救ったのは、ウイスキー製造の現場の人々だった。
主要都市の一部には、日英同盟(1902年に調印・発効、23年に失効)の影響も残っていたが、スコットランド北部では、東洋人そのものが珍しかった。加えて、ウイスキー製造技術は、密造の伝統もあって、門外不出が原則だった。
なぜ、ロングモーン・グレンリベット蒸溜所のグラント工場長が実習を許可したのか。政孝氏の著書によると、グラント氏は「ウイスキーづくりの勉強はゴルフと同じで、本を読んだだけ、見ただけでは絶対だめだ。体で覚えるものだ」という主義の持ち主だった。「なんとしても現場で実習を」という政孝氏の熱意と、グラント氏の根っからの「職人気質」が響き合った結果のように思える。