日本人の江戸時代に対する憧憬(どうけい)には強いものがある。古き江戸は良かったというものだ。人は良い思い出だけを積み上げたいから、どうしても取り返せない過去を美化したくなる。江戸時代のマナーを扱った「江戸しぐさ」についても、昨年の史実に疑義を呈する書物が出版され、読書人やネット言論界では話題になっている。「江戸しぐさ」は小学校5、6年生の道徳の教科書でも取り上げられているそうだが、最近の小学生のネットリテラシーは高いから、道徳という科目の信憑(しんぴょう)性にもかかわる問題になりかねない。早めの検証が望まれるところだ。
それとは別に、江戸時代の日本人の識字率は世界最高水準だったという伝説もある。時代劇を見ていると皆、字が読める。勤め人である武士の読み書きは必修であったろう。そして商人も諸法度、お触書、ご高札、五人組帖前書など自治運営上の必要があったし、上層農民も農村の統治(納税)と経営上、読み書きは必要だった。文学も花開き、江戸時代は広く文字が必要とされた高度な文書社会であったことは間違いがない。記録がたくさん残されている。しかしアカデミックな分野では1870年頃の日本の男子の識字率は40~50%、女子が15%程度であったと考えられている。確かに当時の欧州から日本を訪問した外国人から見れば、開国間もない極東の国としては驚異的だったに違いないが、客観的な評価としては「恐らく当時の一部のヨーロッパ諸国と比べても、ひけをとらなかっただろう」(『学歴社会』R.P.ドーア)というレベルであった。
1850年頃の識字率のデータでは、最高水準はスウェーデンで約90%、清教徒中心の米国の白人は非常に教育熱心で移民を合わせても85~90%、スコットランドやプロイセンが80%、フランスが55%、イアリアとスペインが25%といったところである。教育面では米国は先取性があった。