□産経新聞正論調査室企画委員・工藤均
関東・東北豪雨から1カ月余り。依然として400人以上が避難所生活を送るなど日常生活を取り戻すまでの道のりは険しい。
昨年以降、日本列島は土砂災害や山の噴火、水害などが相次いだ。そのたびに「災害への備えを万全に」と叫ばれる。だが、東日本大震災を現地で体験し、取材を続けた一人として改めて思うのは、いざというときの動き方。行政の情報だけに頼らず、場合によっては「自分の身は自分で守る」という強い覚悟こそが必要となるからだ。
今回の鬼怒川の堤防決壊の際には、避難指示の遅れ、指示そのものがなかったなど行政側の問題点が指摘された。職員に詰め寄る住民の姿がテレビに映し出された。家族を亡くし、家を失い、収穫前の水田が水没した住民のやりきれない思いは想像を絶するものがある。住民の生命を守るべき立場の行政側の責任は重大だが、当時の刻一刻と変化する気象状況のなかでの情報の開示、避難計画など事前の対策も大自然を前にしては完璧ということはあり得ない。
水害は身近に迫らないと分からない部分もある。家の中に濁流が入ってきて初めてその甚大さを知る。目前に迫るまで危機感が乏しいために避難が遅れる。避難所に行くか、家の2階に行くのかの判断も迷う。夜の無理な屋外避難で被害が拡大することさえあるが、東日本大震災の大津波への住民の意識を取材するにつけ、危険が近づいたらまず逃げるという意識が生死を左右するといっても過言ではない。
さらには大げさに捉え、早め早めに行動する。後で「何もなくてよかったね」と笑い話で済むくらい、見込みがはずれたっていいくらいの意識が不可欠と思う。行政側の情報も得ながらであることは当然だが、あくまでも受動的ではなく自らの意志で能動的に動くという意味だ。
■