この先行区域内には5~6基の墓域があったため、地元住民でつくる「落ち武者奉賛会」が整備前の19年12月、「落ち武者の墓の伝承が複数ある」とした申立書を市に提出した。これを受け市は墓域を試掘調査したが、最終的に「遺跡はない」と判定、宅地化を進めた。
この結果、落ち武者の墓はこれらの墓域より約100メートル離れた開発予定地にある1基を残すのみとなった。
「調査は申立人である奉賛会には伝えられず、住民が作業に立ち会うことも禁止された」。奉賛会会長の加藤和也さんは市への不信感をあらわにする。
「一村総持」
同会によると、残った1基については、もともと墓であることを示す資料もある。明治時代の古地図には田畑に囲まれた小さな方形の土地で「5歩」(約16平方メートル)と面積が記され、田畑や住宅とは違う特別な空間を印象づけている。また同時期の登記簿には、村の共有地を意味する「一村総持」の注意書きが添えられている。