【安西洋之のローカリゼーションマップ】
日本滞在中、いろいろなところで「日本はこうだから、それはできない」「日本人の性格では無理」「幼児教育から変えていかないとできない」という話をさまざまなネタで聞いている。
大きなサイズの話にすれば何でも語れ、それはそれで事実だから、簡単に否定できないことも多い。「話を大きくし過ぎる」と批判はできるが、その指摘が問題を大きく覆っているのは確かなので、サイズだけで発言を聞かないのは受け手として甘いのかもしれない(もちろん、サイズだけの問題ではなく、原因や解決を「一見根本そう」なところに求める安易な態度が疑問視されるのだが)。
そういうことを思いながら、一方、ぼく自身、欧州文化という大きなサイズで語っていることになんとなく「罪悪感」を持ってしまう。「欧州の考え方はこうで、日本のそれと、こういう点が違う」としょっちゅう書いているわけで、「そういうお前が、『日本の…』を話題にあげるのか?」と言われると、頭を下げるしかないのだ。
そう頭を下げながら、「いや、いや、違った文化圏の間にある特徴の差はあるわけで、ぼくはそれを比較することで、自分たちや異なった文化圏の理解を深めるために言っているのだ」と独り言つ。
文化を語ることを自分の守備範囲とする人間が、それ自体を否定しなければいけないとなれば、大学の多くの先生も失職する。ぼくは大学で教える人間ではないが、「ビジネスと文化の狭間と関係」を語る人間ではある。
それでは、なぜサイズを大きくすると胡散臭く見えたりしてしまうのか。