「差別」を解消する意思が邪魔者扱いされぬ社会を 楽観と悲観のバランス感覚で (1/3ページ)

【安西洋之のローカリゼーションマップ】

 「日本で外国人がために差別された」とのオンライン記事があった。それに対して「日本ほど外国人を差別しない国はない」というコメントをみた。コメントの主は、欧州や北米などの白人社会でのアジア人差別と比較すると日本はマシ、と言いたいようだ。

 差別は差別する側ではなく、差別される側にいてこそ実態を認識できる現象である。レストランで座る席を外見で○○人だからと隅の方に追いやられるだけでなく、何気ない言葉に差別されたと精神的苦痛を伴う経験でもあるからだ。

 何か事件がおきたとき「○○人の仕業ではないか」と根も葉もない噂をたてるのも、その一つだ。

 ある点に関する各国の法律を調べ、何らかの差別事情の比較ができることもあるが、呑気に「日本ほど外国人を差別しない国はない」と言えないことくらいは、ぼくも分かっている。

 欧州からの客人を連れて夜の酒場に繰り出し「外国人お断り」という張り紙を何度見たことか。

 ミラノに長く住んできて、日本での酒場の張り紙のような、あからさまな人種差別を受けたことはない。「君はアジア人だからあっちに並べ」と言われるのは、空港の入国審査くらいである。ただ、そう言えるのも、ぼくが「差別を受ける側として」あまり意識していないからに過ぎないかもしれない、と考えている。

 日常生活のさまざまなシーンでいつのまにか差別されていることはあるに違いないが、そのポイントにぼくの関心があまりないから「被害妄想に陥らない」。その程度に思っている。

「差別されているかも」といちいち気にしていたら、日常生活を平穏に送れるはずがない。

差別は誰にでも起こり得る