【視点】存亡の危機 現実の「息づかい」が見える 産経新聞論説委員・清湖口敏 (1/3ページ)

 「このあたりの文章からは、太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる、そんなものは少しも書いてないが」。『平家物語』と題する小林秀雄の評論の一節だが、私たちはここから「息づかい」の見える文章とはどういうものかを学ばねばならない。

 さて、今年も「国語に関する世論調査」(2016年度、文化庁実施)の結果が公表された。目を引いたのが「存亡の危機」である。調査では「存続するか滅亡するかの重大な局面」について「存亡の機」を使うか、「存亡の危機」を使うかと尋ねている。結果は、「存亡の機」を使うと答えた人がわずか6.6%だったのに対し、「存亡の危機」を使う人は83%にも上った。

 文化庁の報告は「存亡の機」を「本来の言い方」と示しただけで、これを正しいとも言ってなければ、「存亡の危機」が誤りだとも言ってない。しかし少なくとも私の周囲では「存亡の危機」を誤用と受け止める向きが圧倒的に多かったのである。世間にはどうやら言葉の正誤を必要以上に峻別(しゅんべつ)したがる人が少なくないようだ。

 そこで考えてみた。国家にしろ企業にしろ存亡即(すなわ)ち「存続か滅亡か」が問われるのは、決して無事の日ではなく、危機が切迫した局面であるはずだ。存亡の「機」が常に「危機」である以上、本来の言い方か否かはどうあれ、「存亡の危機」を誤りとする根拠は極めて薄弱といわねばならない。

「存亡の機」を「本来」とする理由