【スポーツi.】「品格」求めるばかりで力士のケアは?

現役を引退し、会見する日馬富士=11月29日、福岡県太宰府市
現役を引退し、会見する日馬富士=11月29日、福岡県太宰府市【拡大】

 □二松学舎大大学院非常勤講師・宮田正樹

 日馬富士が貴ノ岩に加えた暴行事件は一大スキャンダルとして連日マスコミをにぎわしている。貴乃花親方の変人ぶりも相まって相撲協会のガバナンス(統治)が体をなしていないことも事態を長引かせているといわざるを得ない。

 今回の事件は、少なくとも平成になる前までは刑事事件化することもなく、力士の強さとしきたり・礼儀作法を重んじる気質を示すエピソードとして語られる程度のことであったと思われる。そして「酒の上のことだから」とおおらかに受け止められたことであろう。

 ◆「文化」と「格闘技」

 しかし、今そんなことを言ったらバッシングの嵐で、まさに「炎上」が避けられない。「いじめ」や「しごき」による若者の死という痛ましい事件が頻発する中、「いかなる身体的打撃・接触も暴力とみなし、許さない」という意見や主張が絶対的に正義であり、「ポリティカル・コレクトネス」として推奨されるようになってきている。しかも、大相撲は2007年に時津風部屋で起きた「しごき死」事件という反省すべき過去を背負っている。

 大相撲は、「わが国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」とその定款でうたう公益財団法人日本相撲協会(相撲協会)により運営されているため、「国技」「品格」がやたら強調されている。

 平城・平安期において国家安泰と五穀豊穣(ほうじょう)を祈った宮中行事という神事を起源とし、武士の台頭とともに武術(格闘技)としての側面が強まっていった。室町末期には寺社の建築・修繕などの募金を目的とした「勧進相撲」という興行が始まることにより職業としての力士が生まれる(プロ化)。こうした歴史をたどった大相撲は、「文化」の側面と「格闘技」の側面を持った「興行」として現在に至っている。

 「文化」の側面を強調すると、「神事」としてのルーツも相まって力士の「品格」なるものが求められるのであろう。しかし、「格闘技」の「興行」の側面から見ると、力士という「異形の人」(人並み外れた体格と力を持った大男)の「格闘」という「見せ物」であったわけで、力士に求められるのは品格ではなかったはずである。

 現在では力士も職業上は、プロスポーツ選手に分類され、社会人としての常識をわきまえた言動を求められる。他のプロスポーツ選手以上の「品格」を要求されがちなのは、神事としてのルーツに加え、「国技」という位置づけが強く影響しているようだ。大相撲を「国技」と言い出したのは、1909(明治42)年に東京・両国に初めて設置された相撲常設館に「国技館」という名称を付けたことに過ぎない。

 ◆問われるかじ取り

 「八百長問題」により「ガチンコ相撲」なるものが喧伝(けんでん)される一方で、モンゴル力士(特に白鵬)が繰り出す「かち上げ」や「張り手」に批判を加えているのも解せない話だ。「禁じ手」ではない技に対して品格の欠如や危険性を批判する割には、「ガチンコ相撲」の結果として力士に懸念される「脳振盪(しんとう)やその他障害問題」に対する関心は薄い。このところの「けがによる休場」力士の多さは異常といえるではないか。「脳振盪」問題は、米アメフットでは集団訴訟に発展する大きな問題となっている。

 力士に「品格」を押しつけるだけでなく、リスクを減らす対戦ルールの策定こそが課題ではないか。外国人力士にも理解できる相撲文化とスポーツ文化を融合したルールを構築することは難しいことではない。筆者は2年半前に当時の白鵬へのバッシングに触れ、このコラムで「国技を名乗り、伝統文化を特徴とする大相撲は、国際化の波に難しいかじ取りで挑むことになる」と指摘した。今、正にそのかじ取りが問われている。

                   ◇

【プロフィル】宮田正樹

 みやた・まさき 大阪大学法学部卒。1971年伊藤忠商事入社。物資部、法務部を経て、2000年5月、日本製鋼所。法務専門部長を経て、12年10月から社団法人GBL研究所理事・事務局長(現在に至る)。非常勤講師として04年から二松学舎大学大学院で「企業法務」、帝京大学で「スポーツ法」(08年~16年2月)に関する教鞭(きょうべん)をとっている。