もし、この630兆円の公共事業費の支出がなければ、日本は財政的にこんなに苦しい状態にはなっていない。いや、630兆円の公共事業費を支出したとしても、もっと有効な使われ方をしていれば、これほど少子高齢化が進むようなことにはなっていないはずなのだ。
630兆円のうち、数十兆円でも子どもの教育資金としてプールされていれば、大学生の半分が学費のために借金をするというような状況には陥っていないはずなのだ。
「公的な浪費は一番始末に負えない」
という言葉は、今の日本にこそ当てはまるものかもしれない。
国債が累積した国の末路
国富論では「公債(国債)が累積した国が、それを完全に償還したためしはない。国家の破産宣言(デフォルト)まではなかなかいかないが、貨幣の悪鋳などの詐欺的行為によって借金を踏み倒す」と述べている。
これも、現代の世界経済や、日本経済に対する警句といえる。
アダム・スミスの当時の貨幣は、金や銀などの貴金属でできていた。貨幣の価値はすなわち金銀の貴金属としての価値だったのだ。だから国は財政が苦しくなると、金や銀の純度の落ちた貨幣を鋳造し、それを、以前の純度の高い貨幣と同じ価値に設定して流通させた。
当然のことながら、インフレを招き社会経済は混乱することになる。
この国債累積の問題は、アダム・スミスの時代だけのものではなく、現在にも連綿と続く問題である。