【視点】エイズ活動家はなぜ中国を去ったのか いまも続く「愛知行動」の受難

2016.9.13 07:26

 □産経新聞編集委員・宮田一雄

 中国のエイズ・人権活動家として知られる万延海氏は2010年に北京を離れ、米国で暮らしている。万氏が創設した「北京愛知行研究所」に対し、08年の北京五輪以降、当局の干渉が激しくなり、中国での活動が困難になったからだ。

 現在は米エール大学客員研究員の万氏がこの夏、来日した。短い滞在期間ではあったが、8月5日には東京・新宿二丁目のコミュニティセンターaktaを訪れ、スタッフと意見交換を行っている。

 ゲイコミュニティのHIV/エイズ啓発活動の拠点であり、内外の著名な研究者や指導者が数多く訪れることからエイズ対策の「迎賓館」とも呼ばれる施設である。

 その2日後の日曜日には東京都内で『中国市民活動の20年間と今後』という万氏の講演会も開かれた。

 2つの機会を取材した印象では、万氏は必ずしも中国政府との対立を望んでいるわけではなかった。北京に戻り、予防活動やHIV陽性者、性的少数者の支援活動を続けられるのなら、政府とも協力したい。反体制活動家というよりもむしろ、そうした現実重視のバランス感覚を有する公衆衛生の実践家というべきだろう。

 北京愛知行研究所は1993年に「北京愛知行動プロジェクト」として発足した。万氏は当時、中国健康教育研究所に勤務する政府職員で、健康教育の観点からHIVや性の問題、同性愛者の権利の擁護などに取り組んでいた。ところが、公衆衛生担当者なら当然と思えるそうした行動が問題視され、「HIVの予防や治療に関する教育にも、性関連のいかなる研究にも関わることを禁止された」という。

 北京愛知行動はあえて「プロジェクト」であることを強調していた。「組織」にすると非合法組織の扱いを受けるからだ。

 「人民に奉仕するプロジェクト」と位置づけ、名称にも中国語でエイズを表わす艾滋病や愛滋病などは避けて「愛」(思いやり、人道主義)と「知」(教育、科学)を掲げた。それでも、万氏は要注意人物として扱われていた。

 中国では1990年代から、河南省を中心に売血業者のずさんな衛生管理によるHIV感染が広がっていた。北京愛知行動プロジェクトは2000年からその調査を開始し、売血でHIVに感染した人たちの支援活動も行っていた。

 万氏は02年8月、北京市国家安全局に拘束され、消息を絶ったことがある。売血によるHIV感染の拡大は当時、政府が隠そうとしていた情報だったので、機密漏洩(ろうえい)の疑いがかけられたようだ。

 民間のエイズ活動家が突如、行方不明になったことはネットで国外にも伝えられ、安否に対する懸念が国際的にも高まった。この間、取り調べを受けていた万氏はほぼ1カ月後に釈放され、プロジェクトはその後、愛知行研究所に名称を変更した。

 万氏によると、釈放時に予防活動を制限するような条件はとくに付けられず、万氏も政府と協力して予防活動に取り組む考えだったことから、公認の会社組織として新しい名前で登録し、再出発したという。

 この結果、予防のためのコンドームやパンフレットの配布は可能になったが、河南省の売血に関連する活動は妨害を受けた。予防目的なら問題ないが、人権に関する活動はできない状態だったという。

 愛知行研究所に対する監視がとりわけ厳しくなった08年は、北京五輪の開催年であると同時に、中国の人権状況に国際批判が高まった年でもあり、中国政府は国内の人権活動を強権的に封じる姿勢を強めていった。

 愛知行研究所も銀行口座が凍結され、警察の立ち入りや税務調査、消防調査を繰り返し受けるようになった。

 結果として、万氏は米国に逃れることを余儀なくされたが、研究所はいまも北京や昆明で細々と活動を続けている。

 中国の人権状況に対する国際的な批判は08年9月のリーマン・ショック後、急速にトーンダウンした。金融危機への不安が広がる中で、国際社会は重大な失策をおかしてきたのではないか。万氏の話を聞いていると、改めてそんな思いが強くなる。エイズ対策にとどまる問題ではなさそうだ。

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