堀川城攻め(浜松市西区) 家康のもっとも残酷な戦

静岡古城をゆく 直虎動乱の渦
徳川軍に討たれた首をさらされた獄門畷。供養費には「堀川城将士最期の地」とある

 永禄11(1568)年12月、徳川家康の遠江侵攻に際して最大の戦いは、今川氏真が立て籠もる掛川城攻めであった。今川軍の抵抗もあり、戦いは長期化したが、この氏真に呼応し「反徳川」を鮮明にしたのが、堀江城(浜松市西区)の大沢基胤と連帯した堀川城である。多くの農民が含まれていたことから「堀川一揆」とか「気賀一揆」と呼ばれ、井伊領の土豪や農民が武装蜂起して徳川軍に抵抗した。

 永禄12年3月、まず堀江城の戦いが熾烈(しれつ)を極めた。徳川軍の先鋒(せんぽう)は近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の「井伊谷三人衆」で、重時は討死、康用は重症を負い、この時の傷が原因で後に亡くなったという。大沢氏は徳川軍の和睦に応じた。

 堀川城は水辺を守り固めた砦(とりで)で、竹田高正や山村修理、尾藤主膳らの武将と農民らが徹底抗戦。一説では2千人が籠城したという。徳川軍は本多平八郎や戸田三郎平ら3千の兵で攻めた。初回は満潮のため兵を退いたが、2度目は干潮を待って攻撃。堀江城の戦いを上回る凄惨さで、『三河物語』には「男女ともに撫で斬りに討たりける」とあり、千人以上が殺された。

 さらに落城後も多くの敗残兵を探し出して気賀呉石の土手で斬首、村人の半数以上に当たる2千を超す首がさらされた。そこは「獄門畷(なわて)」と呼ばれ、龍潭寺の南渓和尚らが赴いて供養したかもしれない。反徳川勢力への見せしめ的な意味合いもあるが、家康の生涯で、もっとも残酷で悲惨な戦いだったといえる。

 堀川城は、湖北をめぐる街道(後の姫街道)や水上交通の要衝として位置付けられていた。『三河物語』でも「水城的な要害地」とある。現在は、都田川沿いの田園の中に城址碑が建ち、首塚が点在している。河川工事などに伴い城の正確な所在地は不明である。(静岡古城研究会会長 水野茂)

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