【ゆうゆうLife】向き合って 垣添忠生さん(68)

2010.1.29 09:27

 □国立がんセンター名誉総長

 ■がんの妻救えなかった喪失感 悲しみ和らげた最期の贈り物

 日本のがん医療の最高峰に立ち続ける国立がんセンター名誉総長、垣添忠生さんは定年を迎え、妻とのんびり過ごそうと思った矢先、妻を肺小細胞がんで失った。現代医療の限界、自宅での看取(みと)り、独りになったときの絶望感。自死すら考えたという日々から再び公務に戻った今日まで、どのように過ごしたのだろう。(文 牛田久美)

 きつい治療に耐えた妻が最後に希望したこと。それは年末年始を家で過ごすことでした。私は1人で世話をすることに決め、在宅用医療器具を扱う猛特訓を受けました。

 平成19年12月28日夜。久しぶりの家での夕飯は、フグよりうまいという人もいるアラの鍋。九州からつやつやした白身を取り寄せました。妻は薬の副作用で口内がただれ、辛(つら)そうだった。それでも「おいしい」とはしを付けてくれました。「こうでなくちゃ、こうでなくちゃ…」と。介護の疲れや沈痛な思いも、あの夜ばかりはたちどころに溶けるようでした。

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 がんの専門医である私の前でがんが妻の命を奪う。なすすべがありませんでした。

 がんの大半は早期発見で治ります。私自身、総長が早期発見できるがんで死ぬわけにはいかないので、受けていた定期検診で大腸がんを見つけました。けれども、肺小細胞がんや膵(すい)臓がんの多くは現代医学では難しい。妻のがんもその一つでした。6ミリの早期に見つけ、一時は良い検査結果に興奮しながら助けることができませんでした。

 12歳年上の妻と結婚して40年。子供のない私たちはいつも2人で行動しました。3カ月前の初秋には北海道でカヌーをこいだのです。妻の周りだけ影が立ち込めているようで不思議でした。出張先のタイの祭りで、火を灯したランタンを空に飛ばしながら寂しさを覚えたこともありました。虫の知らせというのはあるのですね。化学療法と放射線治療で消えたはずのがんは全身に転移していました。多発性脳転移を告げたとき、妻はすべてを察していました。

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 臨床の現場で患者さんを救えない喪失感は大変なものです。しかし、妻との別れはさらに底が知れませんでした。作家、江藤淳氏が自死しましたが、私も亡くなってからの3カ月(百カ日)は自死できないから生きている状態でした。登山の再開、歯の治療など少しずつ新しいことを始め、悲しみは癒えないが和ぐのを感じ、百カ日とは長い先人の知恵なのだなと思いました。

 その始終を記した近著に、私のように身をよじるような苦悩や悲嘆を味わっている方々から手紙をいただきました。喪失感を抱きつつ、どこかで立ち直っていく。その手助けをするグリーフ・ケア、いわゆる悲嘆の研究は、もっとなされるべきだと感じました。また、現代医学の壁を破るのは基礎研究です。病理、細胞、とりわけ遺伝子の研究と新薬開発には期待がかかります。

 妻を看取ったとき、カテーテルを身体から抜いて血を脱脂綿で抑えました。こうしたことはなかなか難しく、8割の人が家で死ぬことを望む現代、それをかなえるシステムの構築も必要です。

 あのアラ鍋は、私たちの最期の晩餐(ばんさん)でした。その後、次第に意識が遠のきました。3日後の大みそか。静かな家に苦しそうな呼吸音だけが響く中、突然、意識のなかった妻が身を起こそうとしました。目を見開き、私を見る。思わぬ強い力が私をつかみました。「ありがとう」。声にならない声が聞こえました。「昭子(あきこ)、昭子」と握り返した直後、妻の手から力が抜けました。

 最期にとてつもない贈り物をしてくれました。あの一瞬がなければ、とうに廃人になっていたことでしょう。妻の無念さ、自分の無力を思うとき、私は妻の手のぬくもりを思いだして踏みとどまってきたのです。今でも妻がどこかで私を見ている気がします。

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【プロフィル】垣添忠雄

 かきぞえ・ただお 昭和16年4月10日、大阪市住吉区出身。42年、東京大学医学部卒業。同泌尿器科助手、国立がんセンター手術部長、病院長、中央病院長などを経て、平成14年から19年まで総長。日本対がん協会会長、がん研究振興財団理事。『患者さんと家族のための がんの最新医療』『妻を看取る日』など著書多数。

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