2010.3.6 05:00
ニッポンチャレンジの会長を務めた山崎達光氏【拡大】
1992年大会のチャレンジャーシリーズにはイタリア、フランス、スペイン(初)、スウェーデン、オーストラリア×2、ニュージーランド、日本(初)の7カ国8チームがエントリーしていた。この挑戦艇決定シリーズはルイ・ヴィトン社が協賛をしていてルイ・ヴィトンカップ(LVC)と称されていた。
92年1月25日。LVC初日、ニッポンが夢にまで見たア杯の世界に第一歩を踏み出した歴史的な日となった。
ニッポンはスウェ-デンを相手に、この日行われた4レースの中で最も速いタイムで快勝し、堂々の初陣を飾った。
その夜、サンディエゴの「すし太田」。ささやかな祝宴の席で、なんとチーム会長の山崎達光が椅子(いす)に腰かけたまま眠ってしまったのである。
激動の4年間、初戦を迎えた緊張と不安、この日の1勝でシンジケートボスとして一身に背負ってきたすべての重圧から解放された様子がみてとれた一瞬だった。クリス・ディクソンと日本人クルーは快進撃を続け、3回の総当たり戦を終えて単独首位、イタリア、フランス、ニュージーランドとともに準決勝に駒をすすめた。まさに快挙であった。
しかし、準決勝までの10日間でニッポン以外の3チームは、艤装(ぎそう)、帆装は細部にいたるまで改良され、一段とスピードを増し、クルーの目の色も変わっていた。ニッポンは健闘したもののフランスとともに3勝6敗。決勝進出はならなかった。
準決勝最終戦、ニッポンはフランスに先行して静かにフィニッシュラインを切った。ニッポン艇のマストには「SAYONARA」のスピンネーカーが翻り、観衆とレースコミッティーそしてサンディエゴの海に、万感の思いをこめて別れを告げた。92年4月9日の夕暮れだった。