今川氏に従った井伊谷城主・直平の三男、直満と弟、直義について、『寛政重修諸家譜』などによると、天文13(1544)年12月、「攻めてきた武田氏か、三河の勢力と内応していたのか」と、直満、直義と不和であった井伊家筆頭家老の小野和泉守政直が今川義元に告げ口し、申し開きに駿府へ赴いたところ、謀反の疑いをかけられ殺害されたというのが通説だった。
天文13年といえば、義元が家督を継いで8年たつが、武田信玄とは同盟関係を結び、今川領へ攻め入ることはありえない。実は、もう一つ、三河勢力との関係を示す巨大勢力が動いていたのである。
義元の今川家の家督継承に際して、姻戚・一門の関係同然であった小田原の北条氏綱との対立があり、富士川以東が戦場となった「河東一乱」の時期と重なり、北条軍は優勢で蒲原、興津まで攻め込んできたという。
しかし近年、新たな文書史料が発見され、注目されている。それは、井伊氏の拠点の三岳城に入っていた奥三河作手郷(愛知県新城市)を本地とする国衆の奥平氏だ。北条氏親の頃には今川氏に従属していたが、三岳城に在番した人物に宛てた“密書”に、北条氏から「井伊氏と談合して挙兵してほしい」という内容のものがあった。それが小野和泉守に見つかり、今川氏に報告され誅殺(ちゅうさつ)されたというものである。
直満と直義は井伊氏館跡であった一画に、供養のために「井殿(いどの)の塚」という墳墓が建立され、兄弟仲良く葬られている。(静岡古城研究会会長 水野茂)