頭と胃が求めるものは通じ合う? 親しんでいるものが人生のコアに (2/3ページ)

 人は記憶に限度があることを十分に承知しているが、頭の中のオープンさには比較的限度を高く見積もっている。さらに言えば、限度が存在すること自体に許し難い気持ちをもっている。

 身体的な限界には気づく。痛みがあり、疲れで動きがとれなくなるからだ。睡魔には戦いきれないことも知っている。大量のものを一気に食べられないし、水でさえガブガブ飲めるわけでもない。

 生ビールをジョッキで何杯までなら平気だが、何杯を越えたら泥酔すると大人は分かっている。かなり正確に把握しているものだ。

 軽い文庫本なら1時間半なり2時間以内で読めるという目安はある。が、ある程度のレベルの本を理解して自分のものにできるかどうかは、ビールでジョッキ何杯、ワインのグラスで何杯とのレベルと同じようには掴み切っていない。 

 しかも本を何ページまで読んだら思考能力が低下する、または逆に内容に嵌り過ぎて興奮することなど予想もできないことは多い。文章の出来ではない。内容自体に予測のつきにくさの原因がある。

 だからなのか、自分自身の理解力は高めに設定されていることが多い。言うまでもなく、ことは本に限らない。どこか知らない国を訪ねて、その文化を分かることについても思いのほか、自分の実力を高く見積もっている。

 自分を知らないのは仕方ないことなのか。

身体が語ることを軽くみてはいけない