【書をほどき 知をつむぐ】樹?それとも草? 分類できぬ隙間に宿るカオス 『竹の民俗誌 日本文化の深層を探る』沖浦和光著 学習院大教授・赤坂憲雄 (1/3ページ)

『竹の民俗誌日本文化の深層を探る』沖浦和光著(岩波新書・780円+税)
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 たとえば、竹という植物は樹なのか、それとも草なのか、と問いかけてみればいい。答えに窮するにちがいない。それはどうやら、植物の分類概念から逸脱する特異な存在なのである。あの南方熊楠が夢中になったことで知られる粘菌が植物なのか、動物なのか、分類しがたい生き物であることを思いだすのもいい。こうした分類体系の隙間にこそ、カオスが曖昧模糊(もこ)として宿る。だから、竹にはなにかしら神秘的な霊力が認められてきた。月を故郷とするマレビトとしてのかぐや姫が、竹から誕生するのは、偶然ではない。

 じつは、この『竹の民俗誌』の著者である沖浦和光さんは、まるで自画像でも描くかのように、この本を執筆したのではなかったかと、わたしは疑っている。みずからを竹に重ねていなかったはずがない。沖浦さんはいかがわしい、分類不能の存在であり、たとえば竹藪(たけやぶ)に棲(す)む賢者のような人であった。藪医者のヤブは野巫である、と沖浦さんは説いた。その漂わせるいかがわしさは、まさしく野巫としての聖なる勲章ではなかったか。