【静岡古城をゆく 直虎動乱の渦】築山殿と信康事件(岡崎市) 夫婦不和から親子対決か  (1/2ページ)

若宮八幡宮社殿の横に鎮座する岡崎(松平)三郎信康の首塚=岡崎市朝日町
若宮八幡宮社殿の横に鎮座する岡崎(松平)三郎信康の首塚=岡崎市朝日町【拡大】

 徳川家康の正室・築山殿(築山御前)の母は井伊直平の娘で、今川氏への忠誠の証しとして義元の許へ人質に出された。その後、要因は不明だが、義元の妹として家臣の関口義広(親永)のもと拝領妻に下げ渡された。二人の間に生まれたのが瀬名姫で、後の築山殿である。関口氏は遠江今川氏の瀬名氏の一門で、おそらく瀬名の地で過ごし、家康の嫡男・信康もここで誕生したのであろう。

 時代は下って、家康は永禄12(1569)年に遠江国を制圧し、拠点を浜松城に移した。岡崎城は信康が城主となり「岡崎三郎」と称していた。織田・徳川同盟の証しとして、信康は信長の娘・徳姫を夫人としていたが、『家忠日記』などによると、どうも夫婦仲が悪かった。

 天正7(1579)年、夫婦の仲は悪化をたどり、徳姫は信長に「12カ条の手紙」を告げた。内容は築山殿と信康の中傷および武田家との内通で、激怒した信長は、家康に信康(21歳)の切腹を命じたのが通説である。

 この信康事件に関しては諸説あり、徳姫スパイ説・徳姫の鬱憤晴らし説・家康生母の於大方との嫁姑(よめしゅうとめ)による駿河派と三河派の対立説など幾多。筆者は家康と信康の親子対立説が有力とみている。

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