【文芸時評】「政治的正しさ」は文学をつまらなくする 12月号 早稲田大学教授・石原千秋 (1/3ページ)

石原千秋さん
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 神奈川芸術劇場で舞台「作者を探す六人の登場人物」を観た。山崎一の演技は安定しているが、他の役者がいまひとつで(僕の役者の判断基準は「笑い方」がうまいかどうかだ)、あまりいいできではなかったが、テーマは興味深かった。悲劇の役を担わされた小説の登場人物が「人間」として現れ、自らの逃れられない運命にあらがおうとしながら、決して逃れることはできない悲しみを演じてみせる趣向。小説の中で、登場人物は悲しんでいるかもしれないという空想を妙に実感させられた。

 先月この欄で、大澤信亮の新潮新人賞の選評の一節「セイコを強姦(ごうかん)して死に追いやったのはケイスケではない。君なのだ。それを世に問う罪の一端を私も担おう」を「文壇版道徳の時間」として笑ったが、もしこうした意味における選評だとしたら反省しなければならない。

 東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大の座談会『現代日本の批評』(講談社)が刊行された。文芸批評がまだかろうじて意味を持っていた1975年から2001年までの批評を総括したものだが、大量の固有名詞が解説なしに羅列されていて、若い人にはほぼ何も理解されないだろう。ただ、「カルスタ」(カルチュラル・スタディーズ)の「政治的正しさ」が批評をつまらなくしたという趣旨には共感する。何度かこの欄で書いているように、「正しいことならバカでも言える」というのが、最近の僕の信条である。「政治的正しさ」は対象を批判するのに便利な道具だが、それがどれだけ世の中を息苦しくしているか、文学をどれだけつまらなくしているか。