組合の集まりに顔を出しても「おれが、おれが」 旧職の地位にしがみつく“定年あるある” (4/6ページ)

 まさにそのとおりである。私は、リタイアしていようが、現役であろうが、みんな「ただの人」だと思っている。もちろん人には地位や肩書や役割がある。当然、それは尊重されなければならない。しかし地位や役職(や組織名)を自分だと思い込んでいる人間は存在する。そのへんの娘でも、アイドルや女優と呼ばれてちやほやされると、いつの間にかその気になって傲慢(ごうまん)な人間になってしまうのは珍しいことではない。杉村太蔵も(私は嫌いではない)「先生」と持ち上げられてその気になりかけたとき、ずっこけて、「ただの人」に逆戻りしてしまった。いいことである。

 どんな地位にあっても、心のどこかに自分は「ただの人」だという自覚をもっていない人を、私は好きではない。そういう人と付き合うのはごめんである。ところで件のじいさんの醜態を見た(?)川北氏はこんなことをいっている。「そこで提案だ。年齢的に六十を過ぎたら、もう何に対しても『ありがとう、ありがとう』で通すというのはどうだろうか」

 まあ賛成である(日本人も外国にいけば、しきりに「サンキュー」だの「メルシー」の「ダンケ」だのといってるではないか)。だが、なんで「年齢的に六十を過ぎたら」なのか。何歳でもいいではないか。そのへんが川北氏の甘いところである。私もトライしてみるが、川北氏にもがんばってもらいたい。

 『定年後』の著者、楠木新氏も、駅員に食ってかかっていた定年退職者(らしき)人間を見た。その男は「ICカードでは定期券の区間の差額精算ができないことに腹を立てている様子だった」。それはできませんと恐縮する駅員に、その男は「それを書いている約款をここに出せ」と怒鳴り散らしたという。先の「おれが、おれが」男よりも、この男はタチが悪い。

この手の苦情をいってくるのは「元管理職」が多い