「ギブ・アンド・ギブ」は成り立つか 自ら動き実践するしか人生の意味はない (1/3ページ)

【安西洋之のローカリゼーションマップ】

 イタリアに住み始めて間もない頃、つまりは20数年前、ある人に「ギブ・アンド・テイクという言葉があるが、ぼくはギブ・アンド・ギブというのもアリだと思う」と言われた。実は、そういうことを言う人は1人ではなかった。それらの人にはずいぶんとお世話になった。

 その時、ぼくは心底、こういう人たちに出会える幸せを思った。

 「人は持ちつ持たれつ。人から何らかの提供を受けようと思うなら、自分から何か貢献できないとだめだ」を生きる道として、生きる知恵として当然に思っていた若き自分にとって、何のリターンも求めない彼らの態度に衝撃を受けた。

 実際は、イタリアでヨチヨチ歩きのぼくにリターンなど求めようがなかったのだ、と今にして思う。それなりの実力があってこそ、ギブ・アンド・テイクは成立する。

 もちろんギブ・アンド・テイクは瞬時に成立するだけではなく、5-10年の時間差で成立することもある。

 いや20-30年間という単位も大いに可能性がある。さらに世代を超えることさえある。結果として、ある人への助けが、その子どもの手によって返ってくる。

 精神的・経済的な余裕や寛容な心が長期的なギブ・アンド・テイクを見通し、短・中期間においてはギブ・アンド・ギブをよし、とする。

 ぼくは、この30年近く、ギブ・アンド・テイクやギブ・アンド・ギブをこのように理解してきた。が、最近、ギブ・アンド・ギブは本当に成立するのか、と再考するようになってきた。

「テイク」を期待する高齢者