【高論卓説】伊能忠敬に学ぶ50歳からの人生 思い切った攻めで偉業も可能に (2/3ページ)

富岡八幡宮の境内に建つ伊能忠敬像
富岡八幡宮の境内に建つ伊能忠敬像【拡大】

 至時と忠敬のもくろみ通り、地図作製の副産物として、子午線1度の弧長も約110.7キロと決められた。現在、緯度35~41度の子午線1度の弧長は110.9キロとされている。

 一方、至時と忠敬が幕府と交渉を始めたころ、フランスでは1メートルの定義のための子午線長測定が進行中だった(1798年完遂)。もともとのメートルの定義に従い、地球が完全な球であれば、この値は10000/90111.1キロとなる。これと現在の値との差(0.2キロ)を1800年ごろの世界最先端の測量精度と考えてもいいだろう。忠敬の測定精度が当時の世界標準から見て遜色のないものだったことが分かる。

 忠敬は17歳で利発さを見込まれて伊能家に婿入りし、佐原村の世話役として村内や幕府との困難な交渉にあたった苦労人だった。また、大飢饉(ききん)を乗り越えて、家業を大きくした有能な実業家でもあった。

 彼の偉業は、その前半生で培った経済力、交渉力、統率力と、高橋至時門下で培った測量と天測の最新技術が結合し始めて実行できたものだった。

 まず、経済力だ。忠敬は第1次測量遠征の費用の約3分の2を個人で支弁している。これを現在の貨幣価値に換算すると2000万円を超えるという。9次にわたる測量遠征は「隠居の趣味」というには膨大すぎる資金を要したはずだ。次に、交渉能力である。測量日記を読むと、幕府役人との交渉や、旅先での現地役人との馬や人足、隊員のわらじの手配についての交渉経緯が細々と記載されている。

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