「文句」は吊り橋を渡るようなもの? 聞き手との間でゆらゆら揺れて (1/3ページ)

【安西洋之のローカリゼーションマップ】

 同じ文句でも、どういうタイミングで言うかにより、それを聞いた人間の受け取り方はずいぶんと違う。

 最近、日本に住んでいる外国人のビジネスパーソンとメッセンジャーでやりとりをしていて、このことを強く感じた。

 彼と酒を呑みながら、日本のビジネス社会の閉鎖性や判断が遅いという愚痴を聞くことがある。そうすると「そうだねぇ、そういうなかで頑張っているよねぇ」と自然と励ますようなセリフがぼくの口からでてくる。

 この男は日本文化への理解が深く、日本の商売の泥臭いところを良く見ている。都心のカッコイイオフィスで「らしい」ビジネス社会にいるのではない。そして文字通り「日々闘っている」。

 だから居酒屋での愚痴は、ぼくの心にも響くことがあるのだ。

 しかし、メッセンジャーというカジュアルなコミュニケーションツールであっても、同じような愚痴を長々と文章で送ってこられると、ぼくも「シリアスな状況なのかな」とか「分からないわけでもないけど、違った心の持ちようもないのか」とやや冷静な受け取り方をする。

 それだけでなく、いやに距離感をもった読み方をする自分に、自分自身が驚いたりするのだ。

 そして、ぼくもイタリア人にイタリアについて話すときに、色々と気を遣っているのを思い出すのである。それは次のようなことだ。

雑談も話すタイミングで難しい