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デマを見抜いた人も行列に加わる皮肉 トイレットペーパーが買えなくなる理由 (2/2ページ)

 皮肉なことに、「リテラシーを持っている人」は「デマに踊らされた人」と、結果的には同じ行動をとるように仕向けられていく。個人が適切な情報を判断できるだけのリテラシーを持っているかどうかは、大きなうねりが発生してしまったあとでは意味を持たないのだ。

 不安な心に、デマはスッと入り込んでくる

 非常時において、私たちはたやすく不安になってしまう。

 私たち人間は不安を抱えたまま生活することを嫌う。不安を抱えたまま生活することは、人間にとって多大なストレスになる。生存が脅かされている状況下から速やかに脱するために、不安という信号に敏感になるように認知機能を進化させたからだ。

 不安の渦中に放り込まれると、すこしでも早く安心を得て、自分の生活に落ち着きを取り戻したいと行動を開始する。そのときに人は「(自分の不安を鎮めることのできる)納得できる物語」を求める。重要なのは「正確な情報を得て冷静な判断力を取り戻したい」のではなく「まず安心したい」ということだ。自分の頭の中を支配する「言い知れぬ不安」を鎮めてくれるような物語でさえあればなんでもよいのだ。その物語がたとえ不正確な情報、あるいは根も葉もないデマであったとしても。

 今回のような非常事態によって、社会が大きな不安に呑み込まれるとき、デマは人の心の隙にスッと入り込んでくる。社会的動揺によって生じる「安心したい」という人びとの強い欲求は、平常時なら正常に機能していたはずの「リテラシー」という名のファイアウォールを緩めてしまうからだ。

 SNS時代には「デマ撲滅のコスト」が肥大化する

 デマが拡大し、それが実社会に害をもたらすことを食い止めることは、デマを打ち消すための「正確な情報」を広め、多くの人がデマではなく「正確な情報」を選択的に取得することによって達成される。

 だが、それはSNS時代には、ほとんど達成不可能になってしまうだろう。インターネットによって多くの人が正確な情報にアクセスしやすくなったことは、デマ情報にもアクセスしやすくなったことを同時に意味するからだ。

 「正確な情報」を発信するためには、専門的な知見と客観的証拠を集め、莫大な費用と手間をかける必要がある。一方で、デマはそのような「正確性を高めるためのブラッシュアップ」の工程をまったく必要としない。スマートフォンやPC画面上のリツイートボタンを押すだけでいい。拡散速度には圧倒的な差がある。ひとつのデマを打ち消すための「正確な情報」を世に送り出すための時間と労力が費やされている間に、デマは瞬く間に拡大して不可逆なうねりを作り出してしまうし、新しいデマも作り出されていく。

 「良かれと思って」拡散する人たち

 また「正確な情報」は概して難解であるし、しばしば直感に反している。「紙製品が豊富にあるのだから買い占めに意味はない」という「正確な情報」がもたらされたとしても、いま自分の街のドラッグストアの棚からはトイレットペーパーがなくなっているのだから、その「正確な情報」は受け入れにくい。

 デマを流す人が悪意の塊であるとはかぎらない。「自分が安心できたこの説明を、周囲の人にも届けてあげなくては」といった善意でも拡散される。SNSにおいては「道徳的感情」に訴えかけるようなメッセージがより大きな拡散力を持つことを示す研究もある。デマを撃退するための「正確な情報」は、人の善意を否定することがしばしば求められる。それがときに、相手に情報を受け入れてもらうどころか、かえって態度を頑なにしてしまうことさえある。

 「それはデマですよ」と指摘された人が、反省するどころか「たとえ情報が不正確だったとしても、注意喚起としての意義はあったのだ! 人の善意を踏みにじってなんの意味があるのだ! 馬鹿にするな!」などと逆上してしまう様子をSNSで目にしたことがある人は多いだろう。

 「正確な情報」は、デマだけでなく「人の感情」ともしばしば対峙しなければならない。

 「デマを流す人」を馬鹿にしてはいけない

 新型コロナウイルスに関しては、現時点ですでにたくさんのデマ情報が流れている。そして今後もまた、「新型デマ」は大量に現れることだろう。

 たとえ「大きなうねり」にはいま抗えなくとも、そのうねりは永続するわけではない。そのうねりの勢いはいつか弱まる。大きなうねりの潮目の変化が訪れたとき、速やかに「正確な情報」が勝利できる体制を整えられるか、あるいは次なるデマの台頭を促すのかは、デマが広がるさなかにおける現在の私たちの行動にかかっている。

 ただし、デマを信じる人びとに正確な情報を伝えることは重要だが、その際にはあくまで「倒すべきはデマであって人ではない」ことを肝に銘じなければならない。間違ってもその人を嘲笑してはならないし、個人の感情を軽視したり侮蔑したりしてはならない。人は自分の気分を害する人の情報など受け入れようとはしないからだ。

 「正確な情報」は「SNSで無知蒙昧な人を馬鹿にして優越感を得るための手段」ではなく「虚偽による社会的混乱を鎮めるための楔(くさび)」である。ある人を殴りつけるために「正確な情報」を用いた場合、問題解決につながるどころか、最悪の場合は大きな政治的対立にさえ発展しうる。「正確な情報」を持つ人びとが説得するのではなく「デマに騙されているこの馬鹿どもめ」と相手を殴りつけることで、しばしば大きな対立構造が生じてしまう。全世界の各所で「反ワクチン」のムーブメントが巨大化したことは記憶に新しい。

 たかがトイレットペーパー、たかが石ころと言ってしまえばそれまでだが、この現象は今後のウイルス・パニックによる社会不安の小さな予告編にすぎないかもしれない。「愚かな大衆の哀れな光景だ」と嘲笑し過小評価するのではなく、それぞれがリテラシーを持ちながら冷静になり、協調的に社会の安定性を回復していく営みが求められる局面としてとらえるべきだろう。(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

 御田寺 圭(みたてら・けい)

 文筆家・ラジオパーソナリティー

 会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』を2018年11月に刊行。Twitter:@terrakei07。「白饅頭note」はこちら。

(PRESIDENT Online)

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