ラーメンとニッポン経済

1950-満鉄エンジニアが見た 「札幌味噌ラーメン」の夢 (2/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

 札幌ラーメン史を紐解くと、札幌はこの時期に「ラーメンの町」として認知され、現代に続くご当地ラーメン文化が開花した……と解説される。そこに介在したキーパーソンが花森安治。『暮しの手帖』創始者として知られる彼こそ、札幌ラーメンをメジャーに押し上げた目利きとして語られることが多い。

 花森は東京帝国大学時代の友人、扇谷正造が編集長を務めていた『週刊朝日』の連載で札幌を取材。そのルポルタージュが評判となり、「全国の食文化に精通する花森が札幌名物=ラーメンとお墨付きを与えた」と、喧伝されたのだ。

 しかし、当該記事「日本拝見その12 札幌--ラーメンの町」(『週刊朝日』1954年1月17日号)を読むと、印象はガラリと変わる。花森の札幌ラーメン評は、意外にも辛辣だ。ラーメンの味わいには言及せず、「いきおい、名物はラーメンということになってしまう。うまいから、というのではない。やたらに数が多いのである」とバッサリ。

「日本の生そばの、あの伝統風味は、もちろんあろう筈はないが、さりとて、マカロニ、スパゲッティのような、本物のハイカラさからもほど遠い。なにか安手の異国ふうにみえて、実は日本製そのもの」「札幌の物価にしては安上がりだということがあるかもしれない。寒い土地だから脂肪分をとりたいという気も働いているのだろう」

 後年になって「いまからおもうと、『札幌に名物はない』と書けば、すんだことである。その二十年のあいだに、いつとはなく、ラーメンは札幌が本場みたいなことになってしまった。めんくらったのは、当のラーメンと、このぼくだろう」(『暮しの手帖』第2世紀18号)と書いたほどだ。

 しかし、ルポルタージュを発表した翌年、1955年には編集長を務める『暮しの手帖』32号で「札幌のラーメン」を取り上げた。「おぼつかない素人の包丁の筈でありながら、しかも、たべて、これくらいうまいラーメンは、よそにはない。ふしぎである……いちど作ってごらんなさい」と、料理として丁寧に評価し、レシピを詳細に紹介している。花森のモチベーションがここまで高まったのはなぜか? それは花森が大宮守人と知遇を得たからだ。当該誌面に記されたクレジットには「南七西四・三平 大宮守人」とある。

■満鉄出身のエンジニアが腕を振るう厨房

 大宮守人--1919年、旭川生まれ。旧制旭川中学を出て満州に渡り、南満洲工業専門学校の機関科で蒸気機関車のメカニズムを学ぶ。その後南満州鉄道(満鉄)に入社し、機関士として活躍。終戦後に日本に引き上げ、札幌で屋台を引き始めたというキャリアの持ち主だ。屋台からスタートした苦労人だが、バックグラウンドは燃料機関のメカニズムにある。草柳大蔵が取材した「札幌ラーメンの体質」(週刊サンケイ 1965年4月5日号)によると、厨房でも機関士ならではのアプローチが発揮されていることがわかる。

「湿度の低いところでは脂肪が思いきって使える」

「脂肪を着火温度に近いところで分解するのがコツ。セ氏87~92度と考えていただきたい」

「鍋に野菜を入れて炒めるときのガスの流量は1800ml(/秒)、流圧は0.5kl(/平方インチ)。これにより150度~200度の温度が保てる。分解した脂肪がパッと野菜に飛びつく」

「モヤシの大部分を占める含木炭素は強い熱にあうと瞬間的に分解して外に出る。脂もガーリックも、だから、食べる人には感じられない」

 ラードなど油分を増やして食べ手の充足感を上げる一方、大量の野菜に油を吸収させて舌触りにはクドさを出さないように工夫。1960年代から店内の空調を徹底管理し、熱気がこもらない低湿度空間でラーメンを提供していた。

 そこにあるのは、勘と度胸と経験に基づいた料理人の属人技ではなく、データを処理し、再現性を高めるロジカルな技法だ。そもそも、大宮が籍を置いた満鉄といえば、1930年代に最高時速130km(現在のつくばエクスプレスの最高速度と同等)を実現した超特急「あじあ」を擁した先端企業である。大宮がそこで培ったロジックとデータサイエンスこそ、解像度の低い札幌ラーメンに冷ややかな視線をおくっていた花森を刮目せしめたに違いない。

 盛田昭夫、井深大は旧日本軍の技術人材を集めた「科学技術研究会」で出会い、戦後にソニーを創業した。糸川英夫は中島飛行機で陸軍の九七式戦闘機、隼などの設計に携わり、戦後はロケット開発を牽引。三木忠直は海軍の戦闘機を設計し、戦後は初代新幹線「0系」のフォルムを創り上げた。旧軍の技術者たちは平和な時代を迎えて技能を存分に発揮し、高度経済成長期の日本のものづくりを支えていく。大宮は満鉄エンジニアの腕をキッチンに生かし、さらに花森安治というスポークスマンを得て札幌ラーメンを世に出したのである。そして、彼による最大のイノベーションこそ「味噌ラーメンの開発」だ。

 『味の三平』二代目店主によると、「お客さんから『豚汁にラーメンを入れて欲しい』と言われて考えついたという俗説がありますが、あれはまったくの都市伝説」だそうだが、味噌味のスープに中華麺を合わせるというマッチングの妙だけではない。

 当時、ラーメンいえばストレート麺が常識だったが、大宮は製麺所とタッグを組んで縮れ麺を導入。濃厚なスープをよく持ち上げ、口中でぷるんとした食感を楽しませてくれる麺を札幌ラーメンの重要パーツにした。クチナシ液によって中華麺を黄色に着色して食べるものの食欲をそそったのも、具材に緑豆モヤシ、ニンニクを起用したのも大宮が最初だ。ジャストアイデアの枠を固め、ディテールを丁寧に整えてプロダクトに結実させる。これもまたエンジニア流のアプローチと言えるだろう。

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