ラーメンとニッポン経済

1958-東京タワーとダイエー、そしてチキンラーメン 戦後の「消費者」を創った58年組 (2/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

■インスタント時代の申し子、チキンラーメン

 チキンラーメンの湯気には、「日本人のライフスタイルの変化」という追い風が吹いた。1955年には都市部の住宅需要に応え、大規模な集合住宅を提供するという目標を掲げた日本住宅公団が発足。中層4~5階建ての鉄筋コンクリートの建物を続々と建てていく。

 「ダンチ族? お分りになりませんか。ダンチは団地のことです。このごろふえたアパート群のことを団地といいますが、あのアパート居住者をダンチ族というわけです。ダンチ族は新しい都会の中堅庶民層です」(週刊朝日 1958年7月20日号)

 この記事によると、当時全国には約5000の団地35万戸に100万人のダンチ族がいたという。彼らが住んだ団地には、公団住宅の設計思想の下、寝食分離の原則から台所と食堂を兼ねたダイニングキッチンが登場。スタンダード設備のステンレス製流し台がしつらえられたキッチンには電気冷蔵庫・電気炊飯器といった調理家電も並んだ。

 かくして、都市圏の周縁にはニュータウン、ベッドタウンが次々に出現。通勤時間の増加と家電の普及により、加工食品を使って調理の手間を省くことが求められる。何しろ、主婦がリソースを割いていたのは家事、中でも調理だ。『婦人之友』1946年10月号の記事「主婦は二十四時間どう暮してゐるか」を引くと、1940年代の主婦は食事の準備に1日3時間半以上も費やしている。時短家事は2020年代も今なお重要な関心事の一つだが、当時はさらなる懸案事項としてダンチ族の前に立ちはだかっただろう。

 ダンチ族の増加によって家族形態、住居形態が変化。さらに女性の社会進出に伴って食の簡便化、外部化の流れが進む。そこで注目されたのがインスタント食品だ。名古屋から巻き起こった粉末ジュースブームは駄菓子屋から家庭用飲料に波及し、1960年には森永製菓がインスタントコーヒーを発売。消費者にピタリとハマり、インスタントカレー、だしの素、お茶漬け海苔などなど、食品加工技術を磨くメーカーがさまざまな商品を開発していく。

 「インスタントとは即時・即刻・瞬間という意味である。してみるとインスタント食品は時間を大切にする食品ということになる」

 「私はラーメンを売っているのではない。お客様に時間を提供しているのである」

 こう語った安藤は、消費者のインスタントニーズに刺さるプロダクトとしてチキンラーメンを開発、投入した。「もし、チキンラーメンの開発がもう少し早かったら、普及するまでに、その数倍、数十倍の苦労をしなければならなかっただろう」という彼のコメントは、時代の波にライドオンした者ならではの述懐だ。

■ザ・マスプロラーメン-プロダクトとして「食」を捉える。

 1958年8月、チキンラーメンの生産がスタート。安藤はまずテストプラントの田川工場を開設した。1食ずつ手作業で作るという手工業的アプローチで製造され、ここでの生産量は1日300食程度。しかし、翌59年には包装をオートメーション化して日産6000食を達成。さらに高槻市で2万4000m2という広大な敷地を確保し、5棟の工場を建設する。この工場群は、最終的に日産10万食体制を実現したというから驚かされる。1962年からは東京、横浜にも生産拠点を構え、安藤率いる日清食品は全国スケールでチキンラーメンを届けていくこととなった。

 1959年頃からは競合も参入を始め、1965年には360社以上のメーカーがひしめく飽和ぶりだったが、安藤は先行者利益をつぎ込み、攻撃的に設備投資。マスプロダクトの体制を整備できない企業は全国市場から淘汰され、強豪が創意を競うバトルフィールドは現在へと続いている。

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