ラーメンとニッポン経済

1987-喜多方が牽引! 極ウマ「ご当地ラーメン」の時代 (1/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

 その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。今回は1987年に誕生した『蔵のまち 喜多方老麺会』をフックに、喜多方ラーメンをクローズアップする。同会は日本初のラーメン振興会として、札幌、博多と並び「日本三大ご当地ラーメン」を標榜する喜多方で発足した。

 北都も南都も人口150万人以上の政令指定都市なのに対し、喜多方市は人口4万5000人という小さなまちだ。しかし、市街を訪れる観光客数は年間100万人を越え、「ラーメン町おこし」成功の先駆的存在でもある。この蔵の街から、札幌・博多と比肩する強力なご当地ラーメンはいかにして生まれたのか。町の食堂でラーメンを頼めば、丼にはモチモチ多加水麺がゆったり泳ぐ。滋味深いスープからは、80年代に巻き起こった「地方の時代」の余熱が伝わってくるようだ。

■藩政下で栄えた「蔵のまち」にチャルメラが響く

 喜多方ラーメンの源流は、中国浙江省からやってきた潘欽星。彼が来日したのは1925年(大正14年)。既に、東京ラーメンの走りと言われる『來々軒』(1910年)が浅草で、北海道ラーメンの嚆矢『竹家食堂』(1922年)が札幌で開業していた。しかし、潘はいきなりラーメン店を開いたわけではない。彼は長崎、横浜で働いた後、喜多方の近隣にあった加納鉱山で働く親類を頼ってこの地へ。しかし、彼は体格には恵まれなかったため、鉱山で働くことはできなかった。

 困った潘が想い出したのは、故郷浙江省で親しんだ麺料理。そして、横浜や東京で人気になっていた「支那そば」だ。経験はなかったものの、故郷を思い出して麺を手打ちし、スープと合わせて屋台で提供した。こうして潘は大正末期~昭和初期に喜多方で屋台を引き始め、『源来軒』と名づける。このネーミングも、浅草『來々軒』へのオマージュだったのだろうか。

 あらためて、喜多方の地勢を見よう。会津若松の北にあるロケーションから、かつては「北方」と表記されていた会津盆地の小都市。東には磐梯山、西には越後山脈、北には飯豊山系の山々を望む、風光明媚な街だ。飯豊山系の伏流水に恵まれたこともあり、江戸時代から酒造業、醤油や味噌の醸造業が生まれた。桐加工業や漆器業も盛んだったこともあり、会津藩政下で商人の富が集積。会津若松は戊辰戦争の戦災でダメージを受けたが、喜多方は文明開化以降も栄えた。市内には今なお4000近い蔵が残り、川越、倉敷と並ぶ「日本三代蔵まち」として名高い。決して大都市ではないが、支那そば屋台などの外食文化が成立する下地はあったのだ。

 ただ『源来軒』以降の大正~昭和初期に喜多方が「ラーメンのまち」としてブレイクしたわけではない。戦後直後に満州から引き揚げてきた長島ハルが、大陸で学んだ塩スープを引っさげ、『上海食堂』(現『喜多方ラーメン 上海』)を開業。また、下宿屋を経営していた佐藤ウメが東京の支那そばブームを聞き、地元の醸造元と開発した特注の醤油を投入し、『満古登食堂』(現『まこと食堂』)をオープンする。

 1958年には『上海食堂』で修業した坂内新吾が『坂内』を開業。大陸仕込みの塩スープ、地醤油の香り漂う醤油スープと、現在の喜多方ラーメンシーンに連なる名店が姿を現した。とはいえ、市内のラーメン店は1960年代でも数十軒程度であり、集合としての存在感はない。昭和の喜多方ラーメンは、いまだ夜明け前の暗がりにあった。

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