渡邊大門の日本中世史ミステリー

黒田官兵衛孝高は、経歴詐称の天才だった?知られざる黒田家の家系の謎 (1/2ページ)

渡邊大門
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 経歴詐称といえば、今もそんなに珍しくない。たとえば、選挙広報には候補者の経歴が書かれているので、それもまた一つの投票の判断になる。ところが、当選者の「華麗なる経歴」が嘘だったと発覚したら、お辞めいただくのは当然のことである。

 ところで、戦国大名のなかには、先祖がよくわからない人がいるのも事実である。昨年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀は、父の名前すら判然としない。光秀が美濃土岐氏の庶流・土岐明智氏の流れを汲むという確証はない。

 実は、2014年に放映された「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛孝高も光秀と同じで、先祖がよくわからないのである。それどころか、先祖については複数の説がある。黒田氏の先祖の有力な説としては、「近江佐々木源氏出自説」と「播磨赤松氏出自説」である。なぜ、そのようなことが起こったのだろうか。

 最初に確認するのは、「近江佐々木源氏出自説」である。その根拠となっているのは、『寛政重修諸家譜』と『黒田家譜』である。

 『寛政重修諸家譜』は、先行する『寛永諸家系図伝』(寛永20年・1643年完成)を補訂するため、寛政・文化年間(1789~1818)に江戸幕府が編纂した系図である。

 同系図で黒田氏の祖は京極満信の次男・宗満(『黒田家譜』では宗清)とされ、「宇多源氏 佐々木氏庶流」と位置付けられている。宗満は近江国伊香郡黒田村(滋賀県長浜市)に住し、黒田を姓とした。現在、近江佐々木源氏出自説は、ほぼ定説となっている。その系譜は、以下のとおりである。

 ところが、この系譜は実に不思議なのである。宗満以降は、宗信-高教-高宗と続くが、高宗以降の系譜は途絶えており、急に重隆(官兵衛の祖父)の名が見える。この間の事情について『寛政重修諸家譜』は、重隆の父は高政であると注記するが、なお疑問が残る。

 宗満が亡くなったのは正平12年(1357)のことで、年齢は79歳だった。そして、重隆が亡くなったのは、永禄7年(1564)のことで、没年齢は57歳である。

 実は、『寛政重修諸家譜』の編者が気付いているとおり、宗信-高教-高宗に高政と重隆を加えても、とても200年で5代では代数が合わない。つまり、途中で何人か抜けているはずなのだが、それが不明なのだ。

 次に、『黒田家譜』を確認しよう。

 『黒田家譜』は福岡藩の儒者・貝原益軒の手になるもので、寛文11年(1671)に福岡藩主・黒田光之の命を受けて編纂を開始し、元禄元年(1688)に完成した。ただし、官兵衛以前の古い時代になると、根拠になる史料が乏しいため、叙述に信頼性の欠ける面がある。

 『黒田家譜』では、高政を「宗清より六代の孫」と記している。『寛政重修諸家譜』よりも1人多いが、これは代数を調整するためだろう(高政の父の名は書いていない)。『黒田家譜』が宗満を黒田家初代と位置付けるのは、『寛政重修諸家譜』と同じである。系譜を整理すると、次のようになろう。

 もっとも大きな問題は、宗満はもとより、高政に至る黒田家の動向は一切わからないという点である。とはいえ、高政については、『黒田家譜』に経歴が記されている。

 永正8年(1511)の船岡山合戦で足利義稙・細川高国と細川澄元・三好之長が交戦した際、高政は義稙に従った。しかし、高政は軍令に背いたことを義稙に咎められ、佐々木氏の仲介によって罪を逃れたといわれている。

 のちに高政は近江国を出奔し、備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に逃れた。福岡を選んだ理由は、同族の加地氏・飽浦氏が備前南部に勢力を保持していたからであるといわれ、この説は根強く支持されている。

 ところが、この高政の経歴というのは、当時の一次史料(同時代の史料)でまったく裏付けられない。おそらく創作にすぎないのだろう。黒田家歴代で、初めて一次史料で存在を確認できるのは、官兵衛の祖父・重隆である。

 現在、黒田の地に赴くと、黒田判官邸跡が残っており、「黒田氏旧縁之地」という石碑がある。その傍らには、「黒田判官代 源宗清」の墓石がある。これは昭和になって建立されたものなので、何の根拠にもならない。

 つまり、『寛政重修諸家譜』、『黒田家譜』に記載された高政以前の系譜は、まったく信用できないということになる。

 最近、黒田氏の出自説として注目されるものに、兵庫県西脇市黒田庄町を播磨赤松氏の流れを汲む黒田氏の出自とする説がある。「播磨赤松氏出自説」だ。その根拠となるのは、勝岡孔美の手になる『荘厳寺本 黒田家略系図』(近世後期成立)や『播磨古事』(近世後期成立)という系図や編纂物である。

 『荘厳寺本 黒田家略系図』が示す、黒田氏の系譜は次のようになる。

 この系図では黒田氏が赤松円光を先祖とし、黒田荘を本拠にしたと記す。円光は赤松円心の弟で、別所氏の祖である。黒田家の実質的な先祖は2代目の重光で、観応2年(1351)に黒田城(西脇市黒田庄町)に移ったという。以降、重光は黒田を姓とした。

 重光以降、黒田家の歴代当主は黒田城を居城と定め、有力な領主の石原氏、比延氏、赤松(春日部)氏、小寺氏などから妻を娶ったと記す。こうして、黒田氏は婚姻により有力者と結び、着々と黒田城周辺に勢力基盤を築いたのである。

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