【ラーメンとニッポン経済】1987-喜多方が牽引! 極ウマ「ご当地ラーメン」の時代

2021.7.21 17:00

 その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。今回は1987年に誕生した『蔵のまち 喜多方老麺会』をフックに、喜多方ラーメンをクローズアップする。同会は日本初のラーメン振興会として、札幌、博多と並び「日本三大ご当地ラーメン」を標榜する喜多方で発足した。

 北都も南都も人口150万人以上の政令指定都市なのに対し、喜多方市は人口4万5000人という小さなまちだ。しかし、市街を訪れる観光客数は年間100万人を越え、「ラーメン町おこし」成功の先駆的存在でもある。この蔵の街から、札幌・博多と比肩する強力なご当地ラーメンはいかにして生まれたのか。町の食堂でラーメンを頼めば、丼にはモチモチ多加水麺がゆったり泳ぐ。滋味深いスープからは、80年代に巻き起こった「地方の時代」の余熱が伝わってくるようだ。

■藩政下で栄えた「蔵のまち」にチャルメラが響く

 喜多方ラーメンの源流は、中国浙江省からやってきた潘欽星。彼が来日したのは1925年(大正14年)。既に、東京ラーメンの走りと言われる『來々軒』(1910年)が浅草で、北海道ラーメンの嚆矢『竹家食堂』(1922年)が札幌で開業していた。しかし、潘はいきなりラーメン店を開いたわけではない。彼は長崎、横浜で働いた後、喜多方の近隣にあった加納鉱山で働く親類を頼ってこの地へ。しかし、彼は体格には恵まれなかったため、鉱山で働くことはできなかった。

 困った潘が想い出したのは、故郷浙江省で親しんだ麺料理。そして、横浜や東京で人気になっていた「支那そば」だ。経験はなかったものの、故郷を思い出して麺を手打ちし、スープと合わせて屋台で提供した。こうして潘は大正末期~昭和初期に喜多方で屋台を引き始め、『源来軒』と名づける。このネーミングも、浅草『來々軒』へのオマージュだったのだろうか。

 あらためて、喜多方の地勢を見よう。会津若松の北にあるロケーションから、かつては「北方」と表記されていた会津盆地の小都市。東には磐梯山、西には越後山脈、北には飯豊山系の山々を望む、風光明媚な街だ。飯豊山系の伏流水に恵まれたこともあり、江戸時代から酒造業、醤油や味噌の醸造業が生まれた。桐加工業や漆器業も盛んだったこともあり、会津藩政下で商人の富が集積。会津若松は戊辰戦争の戦災でダメージを受けたが、喜多方は文明開化以降も栄えた。市内には今なお4000近い蔵が残り、川越、倉敷と並ぶ「日本三代蔵まち」として名高い。決して大都市ではないが、支那そば屋台などの外食文化が成立する下地はあったのだ。

 ただ『源来軒』以降の大正~昭和初期に喜多方が「ラーメンのまち」としてブレイクしたわけではない。戦後直後に満州から引き揚げてきた長島ハルが、大陸で学んだ塩スープを引っさげ、『上海食堂』(現『喜多方ラーメン 上海』)を開業。また、下宿屋を経営していた佐藤ウメが東京の支那そばブームを聞き、地元の醸造元と開発した特注の醤油を投入し、『満古登食堂』(現『まこと食堂』)をオープンする。

 1958年には『上海食堂』で修業した坂内新吾が『坂内』を開業。大陸仕込みの塩スープ、地醤油の香り漂う醤油スープと、現在の喜多方ラーメンシーンに連なる名店が姿を現した。とはいえ、市内のラーメン店は1960年代でも数十軒程度であり、集合としての存在感はない。昭和の喜多方ラーメンは、いまだ夜明け前の暗がりにあった。

■ディスカバー・ジャパン 「発見」された喜多方ラーメン

 喜多方市が全国的に知名度を上げたのは1974年のことだ。地元の写真家・金田実が写真展「蔵のまち喜多方」を開催。それまで目を向けられたこともない「蔵」が文化資産、観光資産として一気に急浮上したのだ。1975年には名紀行番組『新日本紀行』(NHK)が「蔵ずまいの町」として喜多方市を紹介。蔵をフィーチャーした観光が盛り上がり始める。

 折しも、1970年には国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が始動。大量移動・大量宿泊のメガ観光から脱却し、ひなびた古都、城下町をマイペースでそぞろ歩く観光スタイルが提唱された。1970年創刊の『アンアン』、1971年創刊の『ノンノ』を小脇に抱えた「アンノン族」が日本の各地を闊歩する。1972年には田中角栄が「日本列島改造論」をブチ上げた。建設・交通への大量資本投下により、列島の隅々までインフラを整備。産業を振興して活性化をにらむ。メディアも政治経済も「地方の時代」に踊った。

 1982年にはNHK『東北の麺』で、ラーメン落語家として知られた林家喜久蔵(現林家木久扇)が喜多方ラーメンを紹介。1983年には『るるぶ』7月号の特集「福島路のんびり旅行」の1ページで「喜多方の味 ラーメン」が掲載された。これは宣伝特集として福島県観光連盟が手がけ、喜多方市観光協会が1ページを確保したもの。行政が猛プッシュし、喜多方ラーメンのプロモーションが始まっていた。

 1985年にはNHK「おはようジャーナル」で「追跡・ラーメンの香り漂う蔵のまち」がオンエア。同年には喜多方市の年間観光が20万人を突破する。1987年には市内のラーメン店が『蔵のまち 喜多方老麺会』を結成し、プロモーション活動をスタートした。発足時に作成したラーメンマップは街歩きの必携ツールになり、その後のご当地食べ歩きマップの先駆とされている。

 タウン誌を手がけるこおりやま情報編集室によると、喜多方市内にあるラーメン店の数は2019年現在で120軒以上。喜多方老麺会には現在も38店が加盟し、たゆまぬ振興活動を続行中だ。一方、同87年には東京・新橋にラーメンチェーン『くら』1号店(現『喜多方ラーメン 坂内』)がオープンする。同チェーンは国鉄関連会社出身の中原明が喜多方の古豪『坂内食堂』、市中で初めて機械打ちの麺を提供した曽我製麺の協力を得て起業している。

 かくして、喜多方老麺会結成の前後から、喜多方ラーメンはトピックに事欠かないボーナスステージに突入。札幌、博多に次ぐ第三のご当地ラーメンとしてフィーチャーされ始め、「蔵とラーメンのまち」として認知度も急上昇を果たしていった。1993年には年間観光客が100万人を突破し、現在に至っている。

 ちなみに旅の販促研究所が行った「食旅調査」(2007年)によると、喜多方市におけるラーメンの「訪問者経験率」は全国50都市中のトップとなる92.5%。これは「市を訪れた観光客のほとんどが喜多方ラーメンを食べている」ことを裏づけるデータだ。昭和初期に潘欽星が種をまき、戦後直後は辛酸を嘗めた引揚者たちが実直な一杯を作り続けた。長い雌伏の時をおくった喜多方ラーメン。培われたスキル、インフラを駆使し、官民が一体となったブランディングで快進撃を続けたのだ。

■官民が一体となり、ラーメンで町おこし&ブランディング

 さて、ここで喜多方ラーメンの尊顔に迫ろう。バラ肉の煮豚が艶めかしいルックスで鎮座。チャーシューメンともなると麺が見えなくなるほどのチャーシューが表面を覆うが、デフォルトでも4~5枚のとろりとした煮豚が楽しめる。箸を使えば目にとまるのは、極太でややウェーブがかかった平打ち麺だ。ぷるぷると震える麺を噛みしめれば、モッチリとした歯応えが返ってきた。柔らかい食感にしてスープに良く絡み、ワンタンかと思うようなテクスチャーに思わず目を閉じる。

 スープは澄んだ醤油味がメジャーだが、先述の通り『坂内食堂』は豚骨ベースの塩味が基本であり、必ずしも醤油系で規格化されているわけではない。やはり、喜多方ラーメンのフォーマットの一つは「麺」だろう。喜多方では麺幅が約4mm程度の麺が多く、「多加水熟成」製法でつくられる。これは水分の含有率を高めて食感を滑らかに。生地を寝かせることでグルテンを形成し、モッチモチの歯応えを強化するものだ。

 この麺の独自性をたどれば、潘欽星が創始した『源来軒』に行き当たる。潘が採用したのは青竹を使って麺生地を延ばしていく「桿麺(打麺)」という製法だ。麺は一つひとつ手で揉み、縮れをつけた。当初はかん水が入手困難だったため、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)でコシを出していたという。屋台時代はそこまで太くなかったそうだが、店舗を構えて遠方への出前が増えてから麺は次第に太くなっていった。

 自動車、バイクの普及以前は、出前の配達で時間を要するのが避けられなかった。そこで、麺がのびにくくなるよう、茹で前に力を入れて麺をひと揉み。これによって麺の中の空気を減らし、密度を高める工夫をしたのだ。裸一貫で中国からやってきた潘がようやく店舗を持てた喜び、客においしい麺を届けたいという熱意が、麺のひと揉みひと揉みにこめられたのだろう。喜多方ラーメンが全国的に知られる中、潘は後継者の育成に尽力し続けた。『源来軒』で学び、腕を磨いた職人は100人以上に及ぶという。

 ただ、80年代に打ち上げられた「地方の時代」という花火も今や昔。近年の地方都市は少子高齢化による人口減少、モータリゼーションの進展による市街地の空洞化で衰退に苦しむ。喜多方市も例外ではなく、1955年には8万人を越えた人口も現在は4万5000人に減少。厳しい情勢に直面しているのは言うまでもない。

 しかし、歴史を振り返れば長きに渡った雌伏の時があり、特徴に目を向ければ焦らずじっくり熟成させて仕上げる「麺」がある。いわゆる「B級グルメ」として安易に消費されない、強靭なコシがある。喜多方老麺会という運動体がたゆみなく進み続ける中、東北の一隅で今なお静かに刃を研ぎ続ける--それが喜多方ラーメンの本分なのである。

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佐々木正孝(ささき・まさたか)

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ラーメンエディター、有限会社キッズファクトリー代表

ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら

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