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「可哀想」を童謡にしつづけた雨情 ぼくが大好きな野口雨情の童謡たち 松岡正剛 (1/5ページ)

2013.11.5 19:30

【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)

【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)【拡大】

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 【BOOKWARE】

 雨情の詩歌と人生を見ていると、ときに胸がしめつけられる。心はやたらに澄んでいるし、とことん「一人ぽっち」や「可哀想なこと」に与するようなところをもっていたぶん、かなり「いいかげん」な男だったろうなという気がする。しかし、その加減のなかで心の髄まで「負け組」が大好きな男だったのだ。

 茨城の磯原町で廻船問屋をしていた素封家の長男に生まれた。だから潮来を取材した『船頭小唄』は故郷にちなむ哀切の歌だった。一応は東京専門学校(その後の早稲田大学)に入って坪内逍遥に師事したが、1年あまりで退学して食えない詩人をめざした。でも詩人らしくなったのは36歳をすぎてからだ。

 明治37(1904)年に父親が事業に失敗したので、故郷に戻って家督を継ぐのだが、そんなことをやれる甲斐性があるはずはない。樺太に渡り、なんとか一獲千金を夢見るのだけれど、芸者に金を持ち逃げされ、あげくは大量のリンゴ貨車1両ぶんを東京に送って生活費に充てようとするのだが、みんな腐ってしまった。やむなく小樽で新聞記者の真似事をした。このとき石川啄木に出会った。

 こんなわけだから本気でデビューしたのは大正8(1919)年以降のことで、斎藤左次郎の「金の船」や鈴木三重吉の「赤い鳥」に童謡を書くようになってからである。すぐに作曲家の中山晋平や本居長世たちと組んだ。晩生(おくて)だったが、ところがここからがすばらしい。持ち前の「可哀想」がみごとな詞になった。

野口雨情のコンセプト 「可哀想」「はぐれる」

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