【BOOKWARE】
建築家ブルーノ・タウトがドイツとソ連から逃れるようにして敦賀に着いたのは、1933年5月3日のことだ。翌日、京都大丸の下村社長らに案内されて桂離宮を見た。感嘆した。54歳の誕生日だった。タウトはたった一日で、桂が「世界で最も美しい不均衡の美」をつくりあげていることを見抜いた。
その後、タウトは雪舟・遠州・光琳・春信・大雅・蕪村・玉堂・鉄斎らに瞠目(どうもく)して、そのような日本の美を一番あらわしているのは「床の間」ではないかと結論付けた。すばらしいプロポーション、祭壇としての趣向、徹底して簡素であること、いずれも申し分ない。とくに際立つのは、その裏側にたとえ便所があっても女中部屋があってもゴミ捨て場があっても、「床の間」がその象徴性を失わないところだと感じた。
一方、タウトは日本中が京都を賛美しているぶん、地方都市がどんどん醜くなっていることにも気が付いた。とくに各地の駅前がひどい。「温泉宣言都市」「陶芸のまち」を謳った広告塔、そのまわりの粗末な花壇、その向こう側の観光バスの駐車場。どの駅前も同じようにくだらない。「床の間の壁一枚」の力を日本中が忘れかかっているようなのだ。