隊員は早々に金縛りに遭う。木という木に、おびただしい数のストッキングや下着、衣類、着物の帯が引っ掛かっていた。S一尉は回想した。
「不謹慎だが、夏に見慣れた仙台の七夕まつりの短冊のようだった」
オランダ発マレーシア行きのマレーシア航空機は高度1万メートルでミサイル攻撃を受け乗員・乗客298人全員が死亡した。現地からの写真には、ねじ曲げられた痛ましいご遺体が写る。
上空8500メートルで衝突した雫石事故も、全日空機に乗っていた全乗員・乗客162人のご遺体は悲惨だった。若い隊員たちは茫然自失、大きな輪になったまま動けなくなった。輪の中心には「かろうじて人間の姿を彷彿させる肉塊があった」。
《戦後史開封》は後にハードカバーと文庫本で出版されたが、原文(新聞紙上)も含め掲載できたのは取材した内容の「ほんの一部」。マレーシア航空機撃墜を受け、未公開部分のさらに「ほんの一部」を小欄に記しておくべきだと考えた。航空機事故、とりわけ空中でのそれは残酷の極み。「ほんの一部」しか書けないのは、紙幅に限りがあるだけではない。余りの残酷さ故に書けないのだ。