「最初に発見したご遺体はマニキュアをしていた。毛布をそっとかけた。後で聞くとスチュワーデスだった。最後は子供。非常呼集で自宅を出る際、テレビで事故を見ていて『死なないで、死なないで』と必死にまとわり付いた6歳の娘と3歳の息子を思い出した」
帰隊すると、数日後に始まる七夕まつりへの民生協力に向け、留守を守る隊員たちが祭りに使うぼんぼりを作っていた。「現場の地獄絵図との余りの落差」に、S一尉はあらためて「命」の尊さを知った。
訓練生は無罪となったが、先導した教官機のK一尉は《見張義務違反》を認定され1983年、最高裁判所より執行猶予付き有罪判決を受けた。クリーニング取次・靴修理店を営んでいたK氏が95年、筆者に重い口を開いた。追突された言い分は多々あったろう。が、弁解は皆無に近かった。ただ、55歳の手が小刻みに震えていた。居酒屋に誘い、呑みながら取材を続けると震えは収まった。自己の正当性を信じながらも「162人の命の重み」(K氏)が、手を震わせるのだった。
K氏は2005年に亡くなったと聞いている。(政治部専門委員 野口裕之)