ぼくが井伏鱒二に開眼したのは『さざなみ軍記』からだ。平家物語のいくつかのストーリーを絵巻ふうのスケッチにしたような組み立てで、当時の公達(きんだち)の日記を作者が現代語に仕立てているという手法だ。『黒い雨』はこれを踏襲している。
舞台は広島市外。時は原爆が落ちてから5年目。鯉の養殖をしている重松という男が、自分が引き取った姪の矢須子の結婚を心配している。矢須子が縁遠いのは原爆症の噂のためで、重松は見合いがきたら相手を納得させる診断書も用意した。ところがそれがヤブヘビで、仲人は原爆投下の日の矢須子の足取りを知りたがった。そこで姪の日記を読むことにした。小説は重松がそれを清書しながら、あの日に戻っていくというスタイルになっている。
矢須子はそのとき疎開のための荷物を運んでいて、直接の被爆を受けていない。けれどもその帰路に瀬戸内海上で泥めいた「黒い雨」を浴びていた。そういうことがわかってきたとき、縁談は先方から拒否された。そのうち矢須子に原爆症があらわれた。