小夜子を最初に“見た”のは横須賀功光が撮った資生堂ベネフィークの強烈なモノクローム写真だった。群を抜いていた。ナマを“見た”のは寺山修司の『中国の不思議な役人』、ついでは重延浩が演出した西武劇場の舞台『小夜子』だった。その直後に、ぼくが司会をした前田美波里(びばり)との対談があって、それからはちょくちょく会った。会うたびに次の投企に立ち向かっていることがわかった。山海塾の天児牛大、KARASの勅使川原三郎と出会ったことが大きかったように憶(おも)う。小夜子は身体作法を心身ともに錬磨したかったのだ。
一方、カメラの前の小夜子は魔法の杖でいくらでも変貌できるセラフィータだった。横須賀功光を筆頭にセルジュ・ルタンスや高木由利子にいたるまで、小夜子はかれらのニューバロックな映像意図を呑んで、無限にウェアラブルになっていった。稀代の「変成女子」(へんじょうじょし)だったのだ。
黒髪のオカッパを通した小夜子は、意地っぱりで繊細このうえなく、ふだんは引っ込み思案だったのに、いざというときはどんなことにも冒険的になれた。だからこそ茶室もパンクも、太極拳もお稚児さんもDJも、割烹着もブルマーもホモセクシャルも軍服も、隔たりなく好きだったのだろう。でも、無遠慮な男や女が大嫌いで、粗雑な仕草がひしめくところや笑いでごまかす連中からは、すうっと逃げ出していた。