フジロック・フェスティバル 創始者・日高正博氏に聞く(2-1) 今年で20回 世界に誇るクリーンフェス

2016.3.30 13:00

 1997年7月26日。富士山麓の天神山スキー場で、ある野外音楽祭が開催された。「フジロック・フェスティバル」。今でこそ、春から秋にかけて、全国のどこかで毎週末に野外フェスが開催されるようになったが、野外フェスの先駆けとなったのが、フジロックだ。

 いいと思うバンド集めて

 フジロックの代表を務めているのが日高正博さん。日高さんは、83年に海外からのアーティストを招聘(しょうへい)するプロモート会社「SMASH」を立ち上げた。

 「70年代から、洋楽のコンサートを見に行っていた。立ったら座れ、あれもするな、これもするな…。ライブを見に行っているのに自由じゃなかった。ステージにいるミュージシャンは、動物園にいる“凶暴な動物”なんだと、あるとき感じてしまって。俺たちとミュージシャンの間には見えない柵がある。ロックを聴く、ロックを楽しむ環境じゃなかった。俺たちがいいと思ったバンドを呼ぼう。日本では売れていなくても、いいバンドは世の中にはいっぱいある。日本に来て、演奏することによって成功へと導いていくやり方もあるんじゃないか。この思いが最終的にはフジロックにつながっていった」と日高さんは語る。

 便利とは逆を

 ロックフェスティバルを開催したい-。その思いが天神山で実現するまでは、10年近い月日を要したという。一堂に多くのバンドを集めるフェスというスタイルはもちろん、野外で、しかも東京から離れた自然の懐に抱かれた中でのキャンプインのフェスは、20年前の日本ではほとんど開催されていなかった。

 「日本ってすごく便利な国。コンサートの会場では、トイレもあるし、コインロッカーもある。何でもかんでも至れり尽くせり。それとまったく逆のことをやろうとした。昔から、何か新しいものが入ってくると『ノー』という国なんだよ。俺はその日本をけなしているわけじゃないんだよ。『ノー』と言って新しいものを吸収しながら、柔軟なクッションも持っていて、良いものはどんどん受け入れていく。新しいものとして再加工、再提案していく。野外フェスティバルも、ほとんどの場所が、ほとんどの人が『ノー』だった。『ノー』といわれると、自分の性格上、うれしいんだよ。実現することが難しいことでも、挑戦したいと思ってしまう」

 東京からそれほど遠くないという観点で、北は福島から、西は静岡や長野まで、フェスティバルが開催できる会場を、日高さんは探し続けたという。愛車にテントを積み、気になった場所でキャンプする。そして見つけ、開催にこぎつけた場所が、富士山の裾野、天神山だった。

 「無念の中止」糧に

 レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、エイフェックス・ツイン、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、フー・ファイターズ、日本からTHE YELLOW MONKEY、↑THE HIGH-LOWS↓、電気グルーヴなどが出演し、7月26日の初日は開催された。

 しかし、台風9号が直撃したことで、2日目は中止を余儀なくされた。2日目にステージに上がる予定だったのが、グリーン・デイ、ベック、プロディジー、リー・スクラッチ・ペリーなどだった。

 「今だから言えることだけど『日高、図に乗るんじゃねえよ』って神様に頭からバサーッと水をぶっかけられたんだろうな。あそこで全部うまくいっていたら、今があるかどうか、分からない。2日目を中止にするという判断は、言ってしまえば一番簡単な方法なんだよ。雨の中で参加していたお客さんは、肉体も精神も疲弊している。何が起きても不思議じゃない状況になっている。簡単に危ないからやめましょうでは、何のためにやってきたのか分からんって言って。残された方法がないのは分かっていたんだけど、それでも何かを学ぼうと。朝の4時頃だったかな、撤退を決めたんだけど、その瞬間のスタッフの顔が忘れられない。一生懸命に考えて、それでもできないことへの無念と憤りが入り交じった感情。これって次の糧になると思った」(元フリーペーパー「Lj」編集長 菊地崇(たかし)/SANKEI EXPRESS)

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