日本にある食が全てオリジナルではない。言うまでもないことだ。だから日本の滞在経験がオリジナルへの判断を保証するものではない。だいたい厳密にいえば、オリジナルとは、どこの地域のどこの時代のものを指して言うのか、という問題が絡むから、オリジナルの定義は極めて難しい。
普通イメージするのは、日本人がオリジナルと思うのがオリジナルという表現だ。しかし、これも日本人とは誰か?国籍を変えた人はどうなのか?どの世代か?どういう環境で育ったか? ということでまるっきり違ってくる。
一方、例えば、ぼくも東京のイタリアレストランの料理を「これはイマイチ」とか言ったりするが、その味をイタリア人に、「これはイタリアの味だね」と反論されると、「あれっ、判断ミスしたかな?」と思う率が高い。
その同じイタリア人の「この和食は素晴らしい」というコメントには、「まだまだ分かっていないなあ」とか内心思いながらだ。
つまり、料理のオリジナルの判断などありえないはずなのに、なんとなくの「ありえる風」はかなり通用している。
そういった話を前提としながら、前述した「信頼できる人の評価が、自分の確信の根拠になる」に触れよう。
確かなのは、オリジナルとは幻想であるが、幻想は確信から生まれるということだ。くだんのジャーナリストは、沢山の日本人のエキスパートから話を聞き、実際にそれらの味を口にして、自分なりのオリジナル評価軸をつくったに違いない。