巨匠と呼ばれるカーデザイナーと長い間仕事をした人に、よく聞かされたエピソードがある。
「彼はね、モーターショーで見たクルマのドアノブの形状を全部覚えているんだよ。2年前のショーでみた、あのクルマの形状に近いとか。驚くのは、それだけでなく、その時のモーターショーのデザインの傾向と関連付けて話すんだ。例えば、あの年のフランクフルトのショーのドアノブの形状が、エクステリアデザインの動向とどういう関係にあったかまで説明する」
巨匠であるから、ドアノブだけをデザインする一スタッフではない。それでも見たドアノブはすべて頭の中にある。
カタチのデータだけなら、画像検索の発達と共に巨匠の記憶力は「すごいよね!」だけの話で、さほど賞賛されるわけではない。百科事典の内容を覚えていても、あまり評価されなくなってきたのと同じだ。「ウィキペディアを見ればすむじゃない」と。
しかし、クルマのデザインの全体の流れとドアノブを結びつけて記憶しているとなると、「さすが、巨匠はデザインのコンテクストをよく理解されている」という褒め言葉を受けることになる。
この話で肝心なところは二つある。
一つはモノを丁寧に観察して正確に記憶しておく大切さだ。マルと楕円は同じく「丸っこいもの」と記憶していると、「この5-10年、カタチに変化はない」という判断になる。しかし、マルと楕円は別物であるとの区別がついているならば、「この5年ほど、以前のマルが楕円に変化してきた」と正確に状況の推移を把握することができる。