【高論卓説】「出口戦略」2つの歴史に学べ 金融緩和続行は危機の火種 (1/2ページ)

 金融史に刻まれた「2つのあの時」がめぐってきた。一つは1987年10月のブラックマンデー、もう一つは97年11月の日本がどん底に落ち込んだ金融危機だ。あれから今年はちょうど30年、そして20年のメモリアルデーに当たる。

 30年前の87年10月19日、ニューヨークの株式市場は大暴落に見舞われた。「ブラックマンデー」だ。この日、NYダウ工業株30種平均は前週末比508ドル(22.6%)もの大暴落を記録した。暴落の原因は定かではない。ドイツの利上げが引き金となったとの見方もあるが、米国経済が曲がり角にあったことは確かだ。そして、その余波を最も大きく受けたのは日本だった。

 伏線は85年9月の「プラザ合意」にあった。主要5カ国の財務相・中央銀行総裁が米ニューヨークのプラザホテルに会して、ドル高是正で合意したこの会合を機に、日本は円高不況に陥る。それへの対処として日銀は86年1月から87年2月にかけて公定歩合を5回も引き下げ、過去最低の2.5%に据え置いた。ここからバブル経済へと駆け上がっていく。

 地価、株価が青天井のように上昇し、世の中はバブルを謳歌(おうか)した。この未曽有の好景気に危機感を強めた日銀はひそかに金融引き締めを模索し始めていた。そこに痛打を与えたのが「ブラックマンデー」だった。「世界恐慌を食い止めるのは日本しかない」という「日本アンカー論」が台頭し、日銀の金融引き締めは雲散霧消する。公定歩合は89年5月まで2年3カ月も据え置かれ、バブルはパンパンに膨らんでいった。そしてあっけなくバブルは崩壊し、日本経済は長い不況に落ち込んでいく。

もう一つの「あの時」