【高論卓説】セクハラ騒ぎ、野党の離合集散、日本の針路 (1/2ページ)

 ■「こだわる」ことに「こだわら」ない

 権力を振りかざしてのセクハラか、あるいは男性が口説く権利か。ハリウッドでの騒動に端を発した前者を非難する「#me too運動」に対し、大女優のカトリーヌ・ドヌーブが、後者を擁護して物議を醸している。もちろん、合意なき暴力や本人の感情を無視した執拗(しつよう)な干渉は許されない。ただ、一般論的には、私もさすがに、パワハラ、セクハラ、モラハラなど、ちょっと騒ぎすぎとも思う。数え方によっては、「○○ハラ(スメント)」は30~40あるそうだが、これでは何をしても地雷を踏みかねず「ハラハラ」せざるを得ない。

 こうしたハラスメントの根源にあるのは、何かに対する「こだわり」である。「何としてもこの異性と結ばれたい」「どうしてもこの仕事の進め方はこうでなくてはならない」などの感情の高まりの結晶である言動が、受け止め側にはセクハラ、パワハラになるわけだ。

 執着して譲らない姿勢は一般的に迷惑だが、時に困難を突破して自己の人生や周囲を輝かせる一助となる。「こだわり」は常に悪というわけではない。われわれは喜んで「こだわりの味」のラーメンをすする。しかし、「こだわる」は、原義的には否定の用語らしく、ご年配の方などは、人によっては「こだわりの逸品」などの文字を見るとかえって購買意欲を失うそうだ。

 現在、野党、特に希望の党と民進党の議員が、離合集散をめぐって騒ぎを繰り広げている。安保法制や憲法改正をめぐるスタンスの違いから、「こだわり」のある各人が、口角泡を飛ばして議論し、離党も辞さないと息巻いている。

9条へのこだわりは、日本の革新を止めている?