【専欄】毛沢東と華国鋒、両氏の表現で呼ばれた習近平氏はどちらに向かうのか (1/2ページ)

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 毛沢東の後継者、華国鋒が亡くなったのは10年前の2008年8月で、北京五輪の開催中だった。華国鋒は毛沢東が亡くなった1976年秋、最高指導者となり、4年後の80年秋に失脚した。失脚理由の一つは個人崇拝問題だった。(元滋賀県立大学教授・荒井利明)

 華国鋒を権力の座から追い出すのに積極的ではなかった胡耀邦も、80年秋の共産党の会議では、毛沢東の個人崇拝を継続しただけでなく、自らへの個人崇拝も受け入れたとして華国鋒を厳しく批判している。

 華国鋒自身は失脚する2年前、78年末の党の会議で個人崇拝問題に言及して、地方の党組織などが党中央に送る文書の宛名は「華主席、党中央」ではなく、「党中央」だけにすること、華国鋒をたたえる「英明な領袖」という表現をやめ、ただ「同志」と呼ぶこと、文芸作品で華国鋒個人を宣伝しないことなどを求めている。

 「華主席、党中央」という宛名書きは、文化大革命(文革)中に使われた「毛主席、党中央」を踏襲したものだったが、毛沢東や華国鋒を党中央指導部の上に君臨する指導者として位置付けることにつながった。党の主席も中央指導部の一員であり、それを超越した存在ではない。82年に主席制が廃止され、最高ポストが総書記になった理由の一つは、個人崇拝が生まれないようにするためだった。

 華国鋒は党主席就任後、「英明な領袖」とたたえられた。毛沢東の「偉大な領袖」と同じく、「英明な領袖」は華国鋒の代名詞だった。

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