【平成30年史 変わる働き方(2)】若者や女性も犠牲に 過労死、今も社会の深い病理 (1/3ページ)


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 忘れもしない昭和63年4月23日。ダイヤル式の電話の前で、胸の高鳴りを押さえながら午前10時になるのを待った。

 大阪府藤井寺市の平岡チエ子(75)はその4日前、新聞の府下版に載っていた小さなベタ記事に目が奪われた。「過労死110番」という名称で、23日午前10時から電話相談の受け付けを始めることが書かれていた。「過労死」という字を初めて見た平岡は「これや!」と心の中で叫んだ。

 平岡は同年2月23日、夫の悟(さとる)を48歳で亡くしていた。ベアリング製造会社で働き、当時は30人の部下を持つ班長だった。バブル景気で増産に次ぐ増産。工場をフル回転していたが、人員の補充はなかった。

 休日出勤を余儀なくされ、年明けから51日間一度も休むことはなく、自宅で息を引き取った。死因は急性心不全。「大きな大きなろうそくが一瞬のうちに何者かに吹き消されたみたいだった」。過労死という言葉自体が浸透していなかった時代。平岡は夫がなぜ死んだのか納得できなかった。「仕事のし過ぎで人が亡くなるなんて、身内にも理解されなかった」

 会社側は「勤務は会社が強いたものではない」と主張した。もやもやとした思いを抱えていた中、過労死110番に全てを打ち明けた。図らずも、平岡は架電した「第1号」となる。

                   

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